2024.05.22 07:11真理とは説明ができない説明がつかないのではなく、説明がいらない説明の必要が無いものが真理なのだと。この世界では、これってこうかもしれないね…っていう「仮説」の域からは出ないものの、何となく納得できる説明はできることばかり。でもそれはどこまでいっても「もし…」という仮説でしかなくて。だから真理がない世界なのだと。真理は、「もし…」がない。何か?がない。人間が追い求める「何か?」はない。という事になると思ってます。
2024.05.20 04:07手放せない何かを手にするのは簡単。物、お金、状況、環境、人脈、体験、感情、気分、あらゆるものを「手にすることは簡単」それは「手にすることが目的」だから。でも一度手にしたものを手放すのが惜しくなる。それは良いこととしていることも、嫌なこととしていることも、どちらでも、手放すからにはこれ以上の何か、もっといいもの、代わりとなるもの、という損得勘定が入っているから。手放す代わりに「こうであってほしい」という欲求がセットになるから。手放したら成長するかもという期待=手放してしまったら、悲しいかも、後悔するかも、失敗するかも…という不安やっぱり今手放すのは止めよう…そんな風に、一度所有すると手放せない。これは何でもかんでも「自分のもの」とおもいすぎているから。なくなってし...
2024.05.20 03:56鏡を通り過ぎる目の前の世界、目の前の他者を「見たくないものをみせてくれるもの」としてみているとしたら、それは一枚目の鏡。表面的なやつ。「見たくないもの」だけでなく「見たいもの」も見ていると気づき、その両方を否定していることに気がついたら、二枚目の鏡が現れる。それは「何を望むかに関係なく見たいものしか見えない」という鏡。全ては見たいものだけしか映し出されないことを知ると、三枚目の鏡が現れる。それは「何も映っていない鏡」。何も映っていないと知れば、その先に現れるのは?それは「鏡なんて無かった」という事実。鏡を自分でおいていた事実。真実を隠し続ける為に置いた鏡であるという事実。ここで初めて、ここには「何もない」という事実を知る。何枚目の鏡を内観しているのか?これはなかなか...
2024.05.14 02:26キリストの十字架刑キリストの十字架刑。罪のないキリストが処刑される場面。それを見る人々は罪悪感を感じたであろう。キリストを貶めた者、キリストは無罪だとわかっていて何も言い出せなかった者、何も関係がない者も見ていて心苦しくなるであろう。処罰する側も心が痛んだであろう。そう、あの場面は完全に「罪」というものが象徴されている。罪、罪悪感、処罰への恐れ。宗教的な解釈はどうか知らないけれど、私はこう解釈します。キリストは、何もしていない。私達を悲しませようとも、苦しめようとも、傷つけようともしていない。見ている姿は痛々しいかもしれないが、キリスト自身は「何も思っていない」ということに気づけということだったのではないか?私達は思考で世界を作ります。肉体や、物や、自然や、ありとあらゆ...
2024.05.14 02:04誰も何もしていない誰も何もしていない。物や自然もなにもしていない。状況や環境もあなたには影響していない。あなたの心を傷つけるようなことや苦しめるようなことはしていない。私達の思考は、何かが「ある」というプログラムになっていて。あなたが苦痛を感じているのは、あなたが誰かや何かに「された」と思っているから。そうした状況が「あった」と思っているから。あなたが楽しさを感じているのは、あなたが誰かや何かに「された」と思っているから。そうした状況が「あった」と思っているから。でも本当は、思考しなければ、「何もない」「何もされていない」「何も起こっていない」。何のために、外の世界があるのか?それは、攻撃対象をつくるためです。「私は正しい」と言える材料。私は悪くないと責任転嫁できる対象...