それが、まさに「思考を所有している」という信じ込み。


言葉は風。言葉を流すワークショップでは、とにかく思考に巻き込まれないように訓練するワークとして、一つこんなのを紹介しています。



出来事の映像、イメージを持ち出すと、そこに自分が入り込んでしまって、思考が切り離しづらいんです。


だから、「文字起こし」をする。

紙に書き出してもいいですけどね。

そういうツールもありますもんね。


このイラストのような感じで、できるようになると、内観としては良い感じです。

次のステップにようやく進めます。


ここでもポイントは、「考えて答えを出していない」ということ。

分析、整理、つじつま合わせ、納得、結論、これら一切必要ないのでやりません。

ただ「流す!」


これコツがあるんでね。流せていないことをまず理解しないと始まりません。

それをワークショップでやってます。


一緒にやりたい方は、こちらをご一緒に~↓

https://ameblo.jp/yumerika2018/entry-12929403189.html



照らし出されているものを観ている「私」。

でも照らしている側が「私」だったって、以外と盲点なんですよね。


この「目」が光を発している、単純にそんな風にイメージしてみてください。

光を発している目で、照らし出した世界も同時に見ている。


そんな感じ。


光(私)自身と、観る者(私)は同じ。 観られる対象=現実世界全て。

これが深層の真我に近い意識構造。


そして、「光」だと気づく為に現実世界を見せられている「私」という意識も同時にある。この「私」は「自我の色が濃い」。

この私はつい、世界に不満を抱き、文句を言い、人を責め、裁き、怒りでコントロールしたくなる。この自我色の濃い「私」はある程度、意識をクリアにしていくワークで誘導できる。

例えば

・内観の目的地を明確にする

・思考を流す(思考を変える、思い込みを手放すなどではない、もっと根本的なやつ)

・瞑想する(空っぽにする)

こんな感じです。


→この講座を今やっています。

https://ameblo.jp/yumerika2018/entry-12930614236.html

思考グルグル、感情に振り回される、今この段階の人は先にこちらからどうぞ↓

https://ameblo.jp/yumerika2018/entry-12929403189.html


何のために内観をやっているのか?

その目的地を目指すとして、その目的のために何をしたらいいのか?それが明確でないと、内観は必ず迷走します。


・「愛」が体現されるとどんな態度となるのか?

・どんな態度を意識することで「愛」に近づけるのか?


この両輪を、表面的ではなく、深層(根本)で同時に回していかないと、内観の終わりは見えてこないんです。

これは、私の経験上はっきりしました。

細かいことをあれこれやっていて内観が迷走気味の人は、ここが明確でないんです。


「答えから解き明かす」のと

「解き明かしながら答えを見つける」のは、全然違います。

私のスタイルは、先に「答え」を提示する方法です。


それを伝える私もまた、その答えにたどり着く途中です。

誰にも、いつどのように辿り着くかはわからないものが「真理」です。

でも、その真理の気配を頼りに私は進んでいます。

その空間を共有することだけしか私にはできません。

「愛で在る、光で在る」ことをただ感じるための空間を一緒に歩いてみませんか?


講座は、ご希望の日時で承ります。

基本マンツーマン。

お友達同士で複数で受けたいというのもOKです。


お気軽にご連絡ください。
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分けるって?

現実世界の中に気づきがあるのでは?

確かにそうです。世界は心の鏡です。


でも、多くの人が勘違いしている「思考が現実化する」

これは、心が整えば「望む通りの現実が起きる」という意味ではないので…


現実が上手くいってるかどうか? は誰が決めていますか?

はい「自分」です。つまり、自分の意見として、そうであってほしい現実が「望む現実のかたち」です。


でも、こころはそれに連動しているようでしていません。

なぜなら、意識としての「私」がどう現実で表現されていくのか?は「お任せ」だからです。

思考も感情も全自動だからです。

コントロールできているようで、何もできていないから、流れに乗るだけなんです。

流れに乗れている人が、成功しているように見え、楽しんでいるように見え、幸せそうに見える、だけ。


例えば、「お金持ちになりたい」に対して。

仕事で稼ぐ

宝くじに当たる

拾う

もらう

どのパターンとしてやってくるのか?は実はわからないから。

でもある程度コントロールすることはできるかもしれませんが、基本的に、どのシーンで、自分のどんな能力が、どのように開花して、何を手にするか? 

そんなのわかりません。

願望としては、理想としては、自分のイメージはあると思いますが…

それに固執する必要はありません。


そもそも、全部なるようになるなら、今頃みんな「望む現実」のはずです。


よく、「現実が上手くいってないのは、私の心が整っていないから」っていう人がいるんです。


でも、内観が進んでいるかどうかの判断は、現実の形態で判断は全くできないんです。

ただ、「どんな現実で、どのような状況、状態にあっても心が平安」→これならば、内観は進んでいると言えると思います。


上手くいっていない現実でも、苦しいとは思っていない。

思考や感情を抑圧することなく全部おもしろがれて、心が軽い。

力みが無い。軽い。余白たっぷり。

そんな感じで、反応としては地味なんです。

自分にしかわからない軽さが、自分の信頼と自信となって、どんどん内側にフォーカスができていくんです。


だから、内観と現実の形態は分ける。


別の例えを1つ言えば、

何かしてくれた人に感謝するのではなく、何もしてくれなくて自分に何も応えてくれなかった人にも、してくれた人と同じように感謝できる・・・

そんな心の状態であれば、内観と現実が切り離せています。


なぜなら、出来事や他者の行為に「差」を見ていないからです。

この人はゆるせて、この人は無理、とか。

これは良いけど、これはダメ、とか。

そんな風に差を見ていると、いつまでも「現実創造」の形にこだわってしまう。


それが良いとか悪いとかではなく…

内観に一生関心が向かない人だっています。

現実に一生懸命の人もいます。

とにかく健康に生きることに全力の人もいます。

お金を稼ぐことに必死の人もいます。

でも、どれもそれでオッケーなんです。


だって、生き方の形はなんでもいいんですから。

内観をしようが、しまいが、それもどうでもいいことなんです。


ただ、私が内観してるだけ。

好き勝手に書いているここでの発信も、「自分と向き合いたい人」に向けて書いています。


全く興味がない人には、このブログさえ現れることはないと思いますから。

読まれなくてあたりまえ、でも読んでいる人には読まれてあたりまえ。

そんなもんです。


いつどこで、どんな必要なメッセージと出会うかって、それすらわかりません。

でも、何か引っかかった時、ふと胸にしみた時、それが「縁」ですから。


ということで、

内観「心のこと」と現実は分ける!


不安になってる時

モヤモヤする時

体調が悪い時

思考がぐるぐるする時

感情にのまれた時

怒りでいっぱいになる時

悲しみでいっぱいな時


あなたは、無意識の領域で

「私は傷つけられた」を反応が起きています。

無意識なので、ピンと来ない人もいます。


「傷つけられた」とは? どんな理解が含まれるでしょうか。

ここには、「自分が悪かったから…」という無意識の「罪悪」と、

だから傷つくのは仕方がないという、「罰の受け入れ」。


これが「罪と罰」という言葉の意味するところです。


罪と罰を受け入れたあなたは、必ず「怒り」「憎しみ」が生じています。その負のエネルギーは、目の前の他者から、その他者が属する集団、社会、日本、世界、地球、宇宙・・・・へと広がり、連鎖していきます。


それを断ち切るには・・・・・

私は傷つかないという意志と、

誰も傷つける者はいないという理解です。


これを理解するには、思考に振り回されない自分が必須です。


外に向かった憎しみの連鎖を、愛と優しさで内へ戻すことが「ゆるすこと」です。

手放すこと=全てを受け容れること。


内観の本質に触れるには? ↓↓

「所有の進化を遡る旅」


思考=解釈=「意見」

「私はこう考えている」という意見。


頭の中のおしゃべりは、「意見を言い続けている」だけです。


意見を持たずに、相手の話を聞く。

=空っぽにして、聞く。

そうすると、感情はぶつかり合わない。


相手の話を聞いているようで、自分の意見を持って聞いているから、自分はこう思うな…次この話を私からしよう…と、ほとんど相手の話を聞いてない。

もしくは自分のフィルターを通して自分の意見から見た解釈で聞いている。つまり、自分の中では相手に向けて意見を戦わせている。


これに気づかないと、意見を通い合わせるとか、わかってもらうとか、お互いの意見の落としどころを探るとか、よけいな思考が動いて、それにがんじがらめになってしまう。


意見を持たずに聞き、そこで感じたそのままの会話なら、あまり衝突はしない。

という私の実体験です。


「神は意見を持たない」

「私は意見を持たない」(=神に対して意見を持たない・他者に対して意見を持たない)

「だから、他者に意見は言わせておけばいい。そこに正誤の判断はいらない。それでいいよ…っていう優しさを持って、安心の場を提供するだけ。そこでやることがあるならやるだけ。」


これがいつも大事にしている私のスタンスです。


↓ ちょっと具体的に、事例をスタエフで長々しゃべってます。

https://stand.fm/episodes/68da1f56f0c1d8144b600a6e

自分のことを話すのは、あんまりないんですけどね。

今日は、何となくそんな気分になりました。

「あんぱん」の朝ドラのヤナセ家のリビングの小道具に「はと車」の工芸品が置かれていて、何だかじっちゃん表に現れた感があってね。


私のひいじいちゃんは、若い時から平和を願ってアケビつる細工を作り続けていた職人で…

人生の後半は「世の中を まるく 眞和禮(まわれ)と はと車」 そんなメッセージを添えて、「はと車」という民芸品を世に出していました。

善光寺の御開帳に合わせて行われた民芸品の博覧会で、今の上皇后さまの目に留まり、今の天皇陛下がお生まれになったことで上皇后さまに親子鳩を献上しています。

そのはと車で天皇陛下が遊んでいるのがテレビで放映されて、めっちゃ売れたんだとか(笑)

祖母の家にあるちょっとカッコよすぎの写真(笑)。畳二畳分くらいの大パネル(笑)

こちらは、おやこ鳩。


私は、生まれる前にひいじいちゃんは死んじゃったんで。実際に合い交えたことはなく… 

でもどこか、とても親近感があって、何となく波長が合うというかね…

そばにいる感じがあるんですよね~。

「平和への願いや祈りを、体現して生きていた人」今は、そんな風にじいちゃんのことを思います。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


そしてね、全然違う話に飛ぶけども…


私カトリックの洗礼を受けていて。まぁ、0歳児だったんで、教会の神父様が「礼名」をつけてくれてるんですけど、「マリアインマクラータ」っていうんです。

小学校までは、カトリック系の学校で、家族で日曜日はミサに行って…みたいな生活してましたけど、基本にわか信者です(笑)

当時は、大阪高松カテドラル聖マリア大聖堂(カトリック玉造教会)に籍がありました。


で、そのマリアなんちゃら誰やねんって思ってずっと生きてきて、なんかマイナーでだっせーな!くらいに思ってたんですけど(笑)

(マリア・〇〇〇ってくそほどあるので、なんかよく聞くメジャーなやつ以外は、は?誰?みたいな・・・(-_-;))


で、何年か前に40過ぎて、初めてこのクリスチャンネームについてググってみたんですよ。


したらば・・・・


「インマクラータ」=汚れなき者・無原罪

「無原罪の御宿り」とは、マリア自身が生まれるときから原罪に触れず、純粋さを保った存在であるという教義に由来。

マリアは「母」「受容」「慈しみ」「仲介者」としての象徴を持ちます。その中でも「インマクラータ」は、マリアの中でも最も清らかで神に近い姿。

「愛と赦しを体現し、人を包み込む存在であること」を示す。

無原罪のマリアは、暗闇の中に差す光として信仰されてきました。

教会や修道会では「インマクラータ」を冠に持つものは、特に「新しい始まり」「神への完全な信頼」を象徴します。人は弱さや葛藤を抱えますが、その根底には「汚れなき魂」が必ずある、と思い出させる役割。

 聖母マリアは「曙の星」とも呼ばれ、暗闇に差す光として人々を導く存在です。

 名前は単なる個人の守護ではなく、「あなたを通して他者にも光が広がる」ことを祈りとして含んでいます。

・・・・・・・・・・・・・・・


なんか、たいそうなことが書いてあって・・・ 昔だったら、これさっぱり理解してないわ。

なんや耳障りええこというて~って思ってたと思う。


でも、今それがやけに腑に落ちたアラフィフの私(笑)。


なぜに、この名前を神父様がつけなすったんかは、今となってはさっぱりわからないが…

(おかん、いきさつ知ってるんかな~今度きいてみよ)


名前って、ただの呼び名じゃなくて、自分を守ってくれる者、みたいなことでもなくて、きっと名前それ自体が「生きるもの」なのではと思うんです。


「私自身が生きるもの」が「マリアインマクラータという名として現れた」のであり、

それは「呼ばれる名」ではなく、「生きている名」になっていくんだと思いました。

目指そうとかじゃなくて、気づいたらそれを体現してたなって、最後はなるんちゃうかなって。


私は生きるにあたって「優しくあろう」と決めています。

「愛で生きる」と決めています。

それは表面的なことじゃなくてね。

そりゃ人間らしく文句言ったりイライラしたりも普通にありますよ。

悩んだり苦しむこともあります。パニックになって、闇落ちすることだってあります。


でも、それでもなお、優しくあろうとする方向性だけは見失わないと決めています。

結論は「愛」だからこそ、闇からも目を背けない。闇を通り抜けた先に信頼を置いています。


人を判断したり評価したり、ではなく、恐れたり、憎むものでもなく、

ただそのままにあることを無条件にゆるすことが、私の思う「優しさ」で、自分に対しても、他者に対しても、全ての人の「後ろ」にある空間を観るようにしている。


そうした私の意志は、良いか悪いかもなく、ただ「喜び」でやっているところがあるって、自覚してるんです。


そうした今、じいちゃんに思いを馳せたり、自分自身に繋がることで、方向性が「あっているよ」と返事をもらっているような気がしています。


何もたいそうなことではなく、これは「私」の中だけのこと。私の在り方と生き方の話。

繋がり合って、広がって、どこにたどり着くかはさっぱりわからない。

でもそこは、きっと、無意識が求めているところなんだと思う。


何のために生きているのか?その答えが知りたくて死ぬほど悩んだ20代、30代。

41で大病して、死に直面して、全てが変わって、そんな中で諦めきれなかった「何か」を追うことをやめなかった今、「この為に生きている」という確信がある。

それは上手く言葉で言い表せないけれど、そこだけは絶対にブレない自信がある。


それだけで、とても幸せなことだし、価値が在ることだと思ってる。

それが、この世界という舞台で、どう形作られ、展開するかは全く未知。

でも、ゴールがわかってるから、本当に全てが悦びになる時が来るのだと思う。

そのために、光であることを諦めないでいようと思う。

何かで埋めようとする。

加えようとする。

人間はそうやって生きてきました。

何をどれだけ手に入れて、安心を得るか…

それが人間の通常の生き方なのは否定できません。


さて、「空っぽ」が最強。

なんでかって?


空っぽは、どこまで行っても空っぽだから。

空っぽだから、「欠けてない」

空っぽで満たされている。


だから最強!


そこには、何でも、どれだけでも、入ってくる。

空っぽだから。「器」すらないくらい広がる空っぽには、豊かさが無限に入ってくる。。。

とスピでよく言われるのはこれですね。

(私も空っぽ、を理解してから、ようやくこれについても理解(笑))


もし、器が空っぽではなく、わずかにでも何か入っていたら?

それはきっと「比べる判断材料」になってしまう。

これよりいいもの、これより多く、これ以外は排除、

そんな風に、何かがわずかにあるだけで、それが「条件のもと」になってしまう。


私達は、途切れることのない流れの中に居る。というか流れの一部。流れそのもの。

空っぽになると、その感覚になってくる。

でも、つい流れてくる何かを、自分で選び取ろうとする。コントロールしたくなる。


イメージしてみて。


川の流れがあるとする。

そこにはいろいろなものが常に流れ続けている。

その流れを私達はフィルターを通して岸からながめている。

このフィルターを流れのとこに置いた「ザル」だと思ってみよう。


水は、ザルの網目を素通りして流れ続ける。

そのザルに、たまに何か引っかかるわけ。


この時、私達はつい、流れの方ではなく、ザルの中身を見て何が入っているかの方にこだわってしまう。

ザルの中身を吟味して、いるものいらないものを振り分ける。気に入ったものだけ持ち帰ろうとする。

そして、次の日もっと良いものがザルにかかってないかと期待して見に行く。


私達の意識はこんな感じなんですね。


じゃなくて「流れそのもの」に目をやった方がいい。

流れを忘れずにいると、ザルの中身は勝手に調整されるのだ。

別にザルを取り去る必要はない。勝手にそこに何かが引っかかるんだから。


空っぽとは,ザルを空っぽにするってことじゃなくて、ザルと流れが両方見えてて、ザルの中身に囚われず、流れに抗わずに観ている状態、って感じ。つまりは観察者。


まずは「思考の空っぽ」を目指すのが「空っぽ」への入口。

思考が静まると、意識は静まる。とても単純。


世界は「流れ」だということを忘れないで。

自然な流れを、そのまま観ているだけ。感じるだけ。


それを体感するための講座↓

「所有の進化」を遡る旅。
新講座 12サインで読み解く所有の進化



とにかく思考や感情に囚われちゃう!手放せない!っていう方へはこちら↓

「言葉を解放するワークショップ」へ





手放し=依存に気づく。


「不快さ」を手放すことが「快」ならば、

その不快さは、快のために自ら求めたもの。


「楽」は「苦」が取り除かれた時に感じる、ならば、

苦があることで、楽が際立っているだけ。


そんな風に、

快は不快に依存して、

楽は苦に依存している、

ということに自覚がないんです。


自分が問題だと思っていること、

苦しみの原因だと思っていること、

どうにか取り除きたいと思っていること、


そうした「苦」があることで、「楽」を感じられる、という無意識のクセがあるんです。


「不快と快」

「苦と楽」

これらは分離していない。

同時に感じることのできるものなんです。


でも、私達は「不快」だけを際立たせて切り離そうとする。

「苦」だけを際立たせて自分から離しておこうとする。


もう、それらはあるままに、あらせておけばいい。


取り除こうとするから、快や楽で埋めたくなる。埋めた達成感は、本当の解放とは違う。


もう、この土俵からおりるんだ。

それが、本当の手放しの意。解放の意。


12サインで読み解く所有の進化





「心臓」と常に私は対話していたのかもしれない。という話。


心臓は、存在の核としての象徴。

理性を頭脳、生命の根源を心臓、と二元的にとらえる伝統は古代からあります。

プラトンやパスカルは「心には理性の知らない理屈がある」と言い、直観・愛・信仰の座を心に置きました。


心臓は 「命の源であり、愛と直観を通じて真理とつながる場所」 として象徴化されることが多いんですね。


そんな「心臓」に、ある日私はものすごく「憎しみ」を向けていることに気づきました。

これは、内観のプロセスで自然と沸き起こった気づきでした。


存在=鼓動

鼓動は、宇宙のリズム。生命のリズム。


「私が鼓動を持っている」のではなく、「私自身が鼓動として生きている」


何かが一体になって、「鼓動そのものの私」が感じられるようになりました。


これを「自己と生命の一致」とでもいうのか…

とにかく、「私」というエネルギーをただ感じた瞬間のような。


「私」という個別の思考や物語を超えて、ただ「生きているリズム」そのものが私という存在。

言葉にするとそんな感じです。


「I AM」=「私は在る」

「鼓動」という、生きるリズムそのものは、愛とのつながりを思い出す合図。


土星・海王星が春分点で会合するこのタイミングに、「原点回帰」をした感覚。

そんな感覚で、こちらの講座、やってます。

12サインで読み解く所有の進化

「手放し」の落とし穴。

内観の盲点。

メタ認知で本質的な自己探求を身につけませんか

私は、イライラしている、と気づけるのは、「私=怒りではないから」

私は、痛みがある、と気づけるのは、「私=痛みではないから」

私は、人間である、気づけるのは「私=人間ではないから」


は??って感じですよね?

だって人間じゃん!人間だもの‥‥

なのに「人間じゃないの???」


論理的に考えてみよう。


〇〇であると、気づくことができるのは、〇〇自体ではない、「何か」がいるんです。


だって、〇〇だと言うことができるためには、まず比較対象がいるんです。

〇〇と、〇〇ではないもの、の両者を比べて見ている第三の視点があるということです。


「私」が「〇〇そのもの」であれば、私は〇〇だ、なんて言う必要がないんです。

私を証明しなくても、私だから。


つまり、「私」を説明なんてできない。私は何者かなんて言葉で解明もできない。

説明がないものが「私」。私の本体である気づきの意識そのものです。


気づきの意識そのもの、としての内観の理論はこちらに書きました↓

「結論=愛(i)」


意識そのものの私には、「肉体」はありません。

肉体が「ある」と思い込んでいる意識があるだけ。


論理を突き詰めると、なんだかおかしい、矛盾していることを、疑わずに生きていることが見えてきます。

内観の面白さはそういう所にあると思って、毎日そのことばっかり考えてにやけています(笑)


そんな私が開講している講座やセッションに興味のある方はこちら↓

https://ameblo.jp/yumerika2018/entry-12930614236.html

https://ameblo.jp/yumerika2018/entry-12929403189.html


占星術で扱う12星座(サイン)は『所有の進化』の象徴。

所有することの本質は、所有することを手放すこと、と表裏一体です。


占星術で扱う12サインには、キーフレーズというものがあります。

いわゆる、意識の発現プロセス。

「私」という存在を認知できる機能とでも言いましょうか…


「私」が「私」と認識できているのは、「意識があるから」ですよね?


その意識には、標準装備されている様々な機能があります。

これらは、「自我」を維持するための機能でもあります。


♈ 牡羊座 — I Am(私は在る)

♉ 牡牛座 — I Have(私は持つ)

♊ 双子座 ― I Think(私は考える)

♋ 蟹座 — I Feel(私は感じる)

♌ 獅子座 ―I Will(私は意志する)

♍ 乙女座 — I Analyze(私は分析する)

♎ 天秤座 — I Balance(私は調和する)

♏ 蠍座 — I Desire(私は欲する)

♐ 射手座 — I Understand(私は理解する)

♑ 山羊座 — I Use(私は活用する)

♒ 水瓶座 — I Know(私は知る)

♓ 魚座 — I Believe(私は信じる)


こうした心の動き、行為(動作)のような機能は、誰の中にもあります。

これらは、自分が動かそうとしなくても、無意識で勝手に動くものでもあります。


無意識だからこそ、それは当たり前のように動き、あえて自覚しているということもありません。


でも、ここに内観の落とし穴があります。

「I AM(私は在る)」から「I Have(私は所有する)」に発展したこの瞬間、私達は決定的に、いわゆる「眠り」に入ったわけです。


「眠りか」「目覚めか」この狭間にある人間の盲点。

これが「おひつじ座」と「おうし座」にあります。


『I AM ワーク』という実践を通して、私達がどのような意識で普段生きているのか?

「本当のわたし」とは?


どんなときでも、いつでも、

『私の核』に戻ることができるようにナビゲートいたします。


占星術は、真理を解き明かす人工的な仕組みです。

それを日常で最大に活かすための高次の視点。


本質的な内観を論理的に理解できる講座です。

詳しくはこちら↓ ポチっと

「12サインで解き明かす所有の進化」


知ってることしか「怖がれない」


私達が感じる恐れ、不安というのは、

何かの出来事や、やったことないこと、まだ起きていない未来に対してではありません。


既知の記憶が、未来に再現されること=恐れ なんです。


過去に記憶した「ラベル」(痛み、怒り、不安といった思考や感情)がその行動によって再現されるかもっていうね。


簡単に言えば「こうなったらどうしよう」「あんな気分になったらどうしよう」です。


「一歩踏み出せない」のは、過去に体験した感情に「これは不安だ」「ダメなことが起きた」とラベルを貼ったことによって、次の行動でそれが再現されたら困るから。


私達は、こうして「思考上」で苦痛を味わっています。


思考は、言葉の連なり。

その言葉に様々な解釈、ラベルを貼って記憶します。

もし、なにも意味づけがなければ、感情は反応できません。

言葉に意味がついた瞬間に、言葉に価値をつけたのです。


言葉とは、私達を惑わします。

その言葉は、ただの文字の羅列、記号です。


原点に還るために、言葉を赦すワークをします。


これは、体感ワークで失敗しがちな部分をカバーします。

最短ルートで解放したい方は是非!


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