「こう在る」という決断の力が「意志」です。

その意志に一致する「意図」、つまりその意志の方向性に向かう為に「自分はどうあるか」と意図するんです。


その、意志、意図によって、その後の願望、信念、思考や感情の「質」が変わるんです。


「こうなりたい」という願望には、「いまそうではない」「そうはなりたくない」「今は満たされていない」という不足感の含みがありますよね?

そうした不足ベースの「願望を現実化させる」のではなく、「意志」から全て始まります。

意志が最上位です。


ここを見落とさないでください。


「意志」とは、願望をはるかに超える「決断」「選択」の力です。

たしかに、願望するという「何かを望む」からこそ、その方向に推進力が生まれます。

でも、全てを超えていく「意志」が最も強く、それが「祈り」です。


もし、「私は愛で在る」と意志したら、それが到達可能なゴールです。

そしてその意志から、「優しくいよう」「裁かずにいよう」「判断せずにいよう」という「意図」が生まれます。


私は愛で在るがゆえの願望と、信念と、その方向性に一致する思考と感情が自動的に生まれます。

どのようにそこに到達するのか、それは誰にもわかりません。

ただ、そこに導かれるだけです。

だから、生き方や日頃の選択に正解も間違いもありません。

でも、ゴールは決まっているんです。ゴールは「愛であること」。


「〇〇をすれば、私の意志が叶う」のではありません。

「意志したから、叶う」のです。

意志したから、そのように全てが動き出し、その目的、ゴールに向かうんです。


意志した瞬間、それは叶っています。もう、そうせずにはいられないのだから。


もし、現実が自分の理想通りではない、望む通りに事が進んでない、苦しい、不安、、つらい、そうであったとしても、それでもなお、「こう在る」という心の選択が「意志」です。

現実的状況が何であっても、「意志」はぶれないんです。


もし、思考グルグル、苦しみが続く、何か焦る、何か不安、そんな状態にあったとしても、「それでもあなたはどう在ると決断しますか?」

常に意志という決断に戻ることです。これが、全ての苦しみから解放される道ではないかと思います。


「言葉」の定義を分けて、明確に構造を理解すると、内観はしやすくなります。


こうした構造の理解から実践していく「覚醒講座」やっています。

興味があれば、ぜひ!

https://ameblo.jp/yumerika2018/page-3.html

親子関係に言えること。

ガチャとか色々いわれるけどさ。

子供が親を選んでるのか?

親が子供を選んでるのか?


ずばり、これは両方です。


同意の下で「親子」として今ここにいます。

同意しなければ今ここには何もありません。


だから、

子供の苦しみを親が背負わなくていい。

親の苦しみを子どもが背負わなくていい。


なぜなら、親子という関係性の中で同じテーマの学びがあって、その学びのゴールに向かって双方で勝手に調和がとれているはずだから。


起きることは、どちらかの為にそうなっているのではなく、必ず同時にお互いのためになっているからこそ、しっかり向き合ったらいいと思う。


まずは、親の価値観や経験則というフィルターを外して、今のまま、ありのままに、ここに在る我が子を見るだけ。

親の考えがない所に見えてくる純粋さを見るだけ。

理想の子供像というフィルターを外して、ただ見てあげるだけ。

逆もまた然り。

自分が子供として、理想の親像というフィルターを外して、ありのままをみる。

そして、「今のままでいいよね」

一瞬でもそう思えたら、お互い救われると思う。


そして、その上で直観的に行動に移せばいいんじゃないかな☺️

こうしたら、きっとこうなる…そんな未来予測じゃなくて、あなたが人と向き合い、どんな意志で関わり合うのか、その決意があれば、手段はなんでもいい。


「誰かのため」とかじゃなくて、「ただそのままで在る」ために、そのままを赦していこう。

「私はこう在る」と、選び直す力、決断する力が「意志」です。

「意志」が選んだ時、思考は自然とその方向へと再編されていきます。


意志が「愛を選ぶ」と決めれば、思考はその方向に動き、世界を愛の反映として知覚し、その中で行動が促されます。


逆に意志が恐れに傾いていれば、思考もまた恐れの言葉や意味づけ、イメージを生み出します。


思考はあらゆる恐れを生み、その恐れの思考に恐れてしまいます。

どうしよう、だめかもしれない、どうにかしなければ、そんな風に恐れが恐れを読んで思考は考えたくもないことを考え続けます。


でもその思考に恐れを抱いていることに気づき、その恐れを超えていきます。

何で超えていくのか?

それが「意志」です。


私は「苦しみたくない」「幸せになりたい」「元気でいたい」「わたしでありたい」その純粋な決断です。

それが願望です。


恐れすらも超えるような、おおいなる自己の願いです。


自分の「考え」は勝手に出てきます。思考は出ては消え、出ては消え、の実体のないものです。

それが「起こるかもしれない」「起こるはずだ」と信じた瞬間、それはリアルに感じられます。そして、何かに苦しめられているような状況になってしまうのです。


その恐れを、回避したり、消し去るのではなく、それを超えていくのが「愛」です。

意志という決断の力です。


私は確かに「今恐れを抱いている」

それでもなお、私は「優しくありたい」「本当のわたしでありたい」「なりたい自分でいたい」「平安でいたい」と願うんです。


これが祈りでもあります。祈りという願いは、愛であり、それは恐れを溶かします。

恐れは「愛されていない」という心の叫び。

その叫びを、恐れを、しっかり見つめた時、愛の記憶が目覚めます。


愛されていたと思い出します。

恐れを超えていきます。


「わたしはわたしでありたい」

どんなに苦しくても、辛くても、怖くても、

それでも私は幸せでいることを選ぶ。


その純粋な意志が、思考をその方向へと勝手に動かしてくれるんです。


どのように幸せになるか、何を手にするかはわかりません。

ただ、私が平安でいられるその延長に、私の人生という形が体験されるだけ。


「恐れ」はあっていい。

でも、その恐れには従わない。

その考えには従わない。

そして、思考は私ではないのだから、純粋な意志だけを持って、愛が思い出されることを待てばいい。


恐れという闇の中を、深く深く見つめることでしか、光の存在に気づけない。

闇を通り抜けた先にある光には、闇が存在していない。そこは光のみ。


恐れを恐れないで。

その恐れこそ、幻想。


「なりたいようになる」

「やりたいようにやる」


この言葉を勘違いしている人は多い。


「自分がやりたいようにやる」時に、「こうでなくてはダメ」「こうすべき」が前提の、何かの枠に囚われた「やりたいこと」のことではない。


「なりたい自分」も、「こうでなくてはダメ」「こうすべき」「人としてこうあるべき」が前提の、何かの枠に囚われた「なりたい自分」ではない。


「何になってもいいのである」

「何をやってもいいのである」

「選択」から自由になれたとき、それが「なりたい自分」であって、「やりたいこと」なのである。

どの選択も胸を張って良い。


「全部ある」も同じです。

「自分の好みのものや、自分が思う必要なものや、状況が全部ある」のではなく、

「その時目の前にあるもの全てが最善だからこそ、青写真だからこそ、選択の呪縛からの自由があるからこその、「全部ある」のである。


選択の必要性が無い時に、本当に解放される。

それが目覚めて生きるというひとつの側面なのだと思う。


何者かになろうとすることは、限定すること。

何者かにならなくても、既にみんな、「わたし」なのである。



「幸せになりたい」

これがみんなの共通の願いであって。

でも、どうなれば幸せなのかの「条件」はみんな違って。

その「条件」が自分でわかっているようでわかっていないのも確かで。


物質世界にあるものや、自身の状態、状況、環境、様々な条件があっての「幸せ」は、人の数だけあるわけで。

見方を変えると、幸せっていうのは、「苦痛が無い状態」ってことになるのかなって思うんです。でも、この「苦痛」にもまた「条件」があるんです。

例えば、お金がない、仕事がない、病気になった、人間関係が上手くいかない…

人の数だけ「苦痛の条件」が違います。


つまり、求める幸せも苦痛も、個人的価値観での条件がある限り、それは「葛藤」を引き起こす要因になるんです。


だから、本当に大事なのは「何があってもOK!」になることなのではと思うわけ。


幸せで楽しいなら、まあストレスはありませんからね。快楽、報酬系の悦びや幸せでも、それはそれでOK。


そして、逆に、お金がない自分、仕事がない自分、病気の自分、上手くいかない自分、であっても、それもOKなんです。


要するに、どんな自分も「愛されていいもの」であると受け止めること。

自分自身を条件で判別しないことです。

「理想ではない自分」は愛されないものではありません。

どんな汚い自分、ひどい自分、最悪な自分、何もできない自分だとしても…それでいいんです。

無条件の愛は、全てをまるっとOKを出すんです。


この無条件の愛が「あなた」そのものです。愛は、意識の「私」であって、精神の「私」であって、その私は根っこは「1つ」しかありません。


誰かが愛を判別するのでありません。

愛そのものに気づいている意識が「本当のあなた」という存在そのもの。


だから、

お金がある状態になることが良いのではなくて、

仕事が上手くいってる状態が良いのではなくて、

病気にならない体を持つ自分が良いのではなくて、

いつも楽しく、感謝できる自分が良いのではなくて、


全てをありのままに、自分にも他者にも「そこにいていいよ」「それでいいよ」と優しいまなざしでいられることが、究極に「幸せ」なのではないかと思います。


形に囚われない、心の平穏に意識が向く時代になってきました。

それは決して、現実逃避ではありません。


ありのままが受け入れられた時、心が自由になった時、本当の意味で地上に根を張ることができるのだと思います。

何かに縛られて、葛藤していた不自由な自分でいた時より、心が自由になると、現実に対しても積極的に関係を持っていくようにもなります。

それは、全体性の視野の中で、今自分に必要なことにフォーカスできるようになるから。


ありのままの自分でいる時の生き方、在り方の選択は無数にあります。

現実で起きることって何でもいいんです。

どんなキャラクターで生きてもいいんです。

そこにはこだわりや執着もありません。

何にでも変化すればいいし、同じままでもいい。

でもその背景には、ずっと普遍で変わることのない絶対的な「愛」があって、それはいつも自然で、調和が取れて、整合性が取れている「創造エネルギー」そのものがある。


「私は私のままでいいんだ」って思える時、それは「他者は他者のままでいいし、世界も世界のままでいいんだ」っていう、「力み」のない意識。

そういられる時、目の前に出てくる現象(現実)に対する解釈、知覚も変わっていくはず。


あなたの想い、心の状態が映し出す投影の世界は、力みも争いもない優しい世界になるんじゃないかな。そしてそこには、純粋な「幸せを願う意志」があるだけ。


って、思います。


神話の奥に隠された心の地図。

― イザナギ・イザナミと私たちの無意識 ―

日本神話に登場する神々の物語を、「心の象徴」として読み解くと、そこには驚くほど深い人間心理の構造が浮かび上がってきます。


■ イザナギ・イザナミ ― 分離と罪悪感のはじまり

黄泉の国から帰ったイザナギが禊(みそぎ)を行うことで、アマテラス・ツクヨミ・スサノヲが誕生します。これは「自我が心の奥に触れ、世界を投影しはじめた瞬間」のように見えます。

アマテラス:秩序や理性=自我の“光”の側面

ツクヨミ:静寂や内省=潜在意識や観察者

スサノヲ:感情や混沌=抑圧されたシャドウ


イザナギがイザナミを拒絶し、黄泉の国への道を岩で塞いだ行為は、「無意識に追いやった自分の一部」との断絶を象徴します。


イザナミとは、怒り、憎しみ、死、悲しみなど、人間が恐れ排除してきた側面――

まさに本来の自己の一部なのです。


■ カグツチ ― 感情の火と抑圧

イザナミが生んだ火の神・カグツチによって命を落とすという物語は、「感情(火)の力の凄まじさ」と、それを制御できない恐れを表しています。

イザナギが怒りに任せてカグツチを斬り殺すのも、自我が「怒り」や「混沌」を否定し抑圧する様子そのもの。しかし、カグツチの死からまた新たな神々が生まれることからも、破壊の中に創造があるという真理が伝わってきます。


■ 天之御中主と神世七代 ― ワンネスから分離への旅

イザナギ・イザナミよりも前に現れた神々――特に天之御中主神は、分離のない「一元的な存在」そのものの象徴かと。「宇宙の中心にある主」であり、善悪や生死、陰陽にも偏らない純粋な意識の象徴です。


その後に現れる神世七代は、陰陽、男女、火水といった対立する要素を生み出していく。

ここには「ワンネスが多様性へと展開していく過程」が表れており、私たちの意識が個として分離し、世界を体験し始める旅が始まったことを示しているのだと思う。


私が神話を「心の地図」として読むのは、「真理にたどり着くための地図」だと思うから。


八百万もの神々がいるのは、それだけ人の心の複雑さを象徴してますよね。

この「神々」も結局は私達が投影として作り出した「偶像」にすぎない。

そんな風に思うんですよね。

ちょっと難しくまとめたけど、このイメージを以前本に書いたんですね。

人間の心理、投影を理解に少し役立つかもしれません。

→書籍「古代神話の鏡開き」




「私」が何かに気づいた。

という時、

それは気づいた者と、気づかれた何かという二者がある。


「私」という意識が確かに気づいているのだが、この「二者」の感覚(分離)の上での「気づき」と、そうではない「気づいている意識の状態=私そのもの」という分離ではない気づきの違いをはっきりと体感することができた。


「気づく」という言葉には、「私が」という感覚がおのずとついてくる。

「私が気づいた」「私が考えている」「私が感じている」「私が手放した」。そんな風に「主語」が付くのがいわゆる「自我」ですね。


でも、これが当たり前のように、私達には染みついている。

だから、全くの無意識で分離思考を選んでいる事にも気づかない。

最初は「思考に気づく」とこからもちろん始まる。

そのうち思考そのものと距離を置けるようになる。

頭で理解していたものが、段々と感覚として腑に落ちてくる。

思考的、現実的な気づきがあるのも、それも気づきの側面。

そして、いきなりきた。


「気づき」とは私そのもの。だったと。

それが「創造」であり「創造神」であり「私」であり「気づき」。


これが、はっきりと体感できた瞬間

「私が創り出す」「私がやる」「私がやらなければ」

そうした「我」が吹っ飛んでしまった。

「目覚めなければ」「解放されなければ」「手放さなければ」そんなものも吹っ飛んだ。


「ただ在る」という、何もない、何の意味も定義づけもされていない、ただの「私」は、創造力そのものであり、神の意志そのものであり、神の計画そのものであり、それを「愛」とも言えるわけで。


現実感や肉体感が一気に薄れた。


その気づきの私がいるからこそ、この現実世界を知覚し、体験し、知ることができている。

ただそれだけ。「私がいる」から「世界が知られている」

「夢見るものが夢である」ということになる。


「闇」なんてものは最初から無かった。

「恐れ」なんてものも無かった。

ただ「在る」というだけがあっただけ。


一瞬だけれど、そこに触れた気がする。

そしたら、エネルギーが満ちて、熱くなって、満たされて、心は静かで、「ゆりかご」の中にいるみたいだった。

この感覚をいつも大切にしていようと思う。


自分メモ用に。

生まれた時の太陽星座は皆さん自分のを知っている人がほどんどですよね?

雑誌の占いとかで見る自分の「星座」です。

生まれた時、その太陽の星座の振動を浴びているんですね。

そして年齢とともに、その振動数は倍になっていきます。


0歳→1歳になると、「振動数は2倍」

10歳になると「振動数は11倍」です。

50歳ともなれば「振動数は51倍」です。


ちなみに振動数は「高い方が良い」というものではありません。

全ての振動数には役割があって、どの層も必要な経験です。振動数が上がると、分離から統合へ向かう感覚になるとは思いますが、時空間を超越する宇宙の法則からしたら、振動数に高いも低いもありませんからね。


これは、ラジオの周波数を変えるように、意識のチャンネルを変える感じで、今を生きているあなたの体験の背景には、その振動数にふれるテーマがあると捉えます。

振動数が上がれば、それだけ繊細な「音」であり、意識の表層では捉えずらくなる。

無意識の深層では、自分では気づいていないかもしれないけど確かに届いている(響いている)宇宙の振動数が無意識のままではもったいないです。

そのチャンネルに合うように意識をフォーカスできたら、現実的な行動にもそれが反映しやすいと思うんですね。そこで、その振動数が象徴するものを言語化します。


「倍音」の原理を用いて「今現在のあなたの年齢の振動数」を計算し、生まれた時に浴びていたあなたの土台となる振動数と、今現在あなたに共鳴している振動数を出して、それらが合わさる時に浮かび上がる「今現在のあなたの魂のテーマ」を言語化します。


今あなたは、あなたなりの人生を歩んでいるはず。
形としては、人それぞれ、出来事もそこでの体験も色々です。

その「現実」の背景にある「魂の学び」をいつも意識に止めておけば、今その学びのために生きているのだ、という安心感も得られ、外の状況に必要以上に惑わされずに今ここに集中することができます。


主に自分をかたどるメインの天体である「太陽」と「月」の振動数を使って、霊的な目覚めを促す今のあなたへのスピリチュアルなメッセージをお届けします。


【今あなたに届く魂の声】

生年月日、出生時間(無くても可能)、出生市町村、現在の満年齢(もうすぐ誕生日がくるという方は、誕生日後の年齢でもOK)

料金 1000円です。


誕生日を境に、その年の振動数が変化します。毎年の「指針」に是非。



※受け取ったメッセージについてゆっくりとお話をしてみたい方

ZOOM 60分 5000円にて個人セッションも承ります。

12サイン(星座)には12感覚というのが当てられていて。

まあ、それが本当に正解かどうかは、これを形態化した人物の思考からつくりだされたものですから一概に言えませんが。

この12感覚という概念から、私自身がいつも占星術で見ている世界観をちょっとまとめてみようという気になったので。


①おひつじ座

これは自我感覚。「おぎゃー」と生まれた時、肉体としての分離体験が始まります。

あかちゃんは

生まれてきた時、お母さんと「一心同体」つまり「離れていない」「一体」なんです。

自分が肉体を持っていることもわからない。

ぼんやりと目に映っている外の世界に、段々と物や音や匂いや、一体だと思っている自分と切り離されたお母さんという人物、その周りを取り巻く環境にはお父さんや兄姉、妹弟がいる。

段々お友達ができて、色々な個性ある人が存在している世界なんだと認識していく世界がはじまります。


②おうし座

これは思考感覚。

世界を認知し始めると、個人としての知覚が安定していく。

でもまだ、それは直観的思考というか、はっきりしない概念や理念で、自分の内側に湧く様々なものを何とか理解しようという思考。

見ている世界は何なのかと認識が進むにつれて、同時に発達してくるのが「言語」である。


③ふたご座

これは言語感覚。

言葉にならないものを含め、何か「意味あるもの」として理解しようとします。音を感じ取り、その言葉の意味や意図を感じることで、自分の中での理解の仕方が身についていきます。

外に見る世界は、より自分と分離したものにも感じるでしょう。

自分と他者との違いの中では葛藤が生じます。

そして、この分離感において、再び繋がりたいという欲求が生まれます。


④かに座

これは聴覚です。

精神的な共感、理解、直観に関わりますが、おうし座で感じている概念や理念、それを理解しようという内部発生のまだ言葉にならない言語を、自分自身の中に聴いていることをどのように理解するのか?

ここでは、すっかり外の世界を見る自我的な理解と、

霊的で分離していない一体化の頃の感覚的理解と、

1つの世界の中で2つの音を聴き分けなければならなくなっている。

この聴覚を「天使の声」と例えられることがあるが、これはたぶん自我の声ではない、霊的につながる分離そのものを否定する声でもあると思う。


⑤しし座

これは熱感覚。

本来情熱とは、それは消えることのない、自分の内側の奥に秘める良く熱望するものを指す。

そこにずっと変わらずにあり続けるものが無くなってしまったという誤解は、外の世界に見る何かにその情熱を転写する。

何かしなければならない、何かを生み出さなければならない、何かを失ったかに感じる欠乏感と、それを埋めようとする願望の温度差によって、自己の内部に生み出されるものがある。


これは、よく言えば本当の自分を思い出すものでもあり、悪く言えば、葛藤である。


⑥おとめ座

これは視覚。

自分が見ているものは「投影」であるということ。先ほどのしし座の熱感覚は投影を起こすものでもある。ビックバンでは、急激に熱が上がり、それが冷める過程で様々ものが固定化されていったのだと思う。

熱が冷めた時、物質が固定化していく。これは自我の熱の利用の仕方。

本来の熱(情熱)というのは何も変わらない、ずっとあるもの。だからこそその熱は冷めることなく、そのゴールは到達できるものであると決まっている。

人間的な視覚というのは、自分の内部の思考的解釈通りに世界を意味づけして、自分が見たい世界しか見ないようになっている。

それが個人的価値観になり、自分と他者との区別がより明確になっていってしまう。

知覚は、違いを見るものとして強化されていく。

見ている現実がリアルだと錯覚すると、霊的感覚は完全に薄れ、肉体感覚が強くなっていく。

肉体にまつわることにしか意識が向かなくなり、一体だった霊的感覚との溝がより深まっていくことにもなる。

視覚というのは、見えないものを感じ取るためにある。でも見えるものに偏っていけば現実の背景にあることが捉えられなくなる。

ここでは対極の⑫うお座を是非思い出してほしい。


⑦てんびん座

触覚。

これはあらゆるものの境界線。

自分と他者の境界線。

考え方の違いによる境界線。

感情の境界線。

エネルギーの境界線はあらゆる「違い」を見る為のもの。

でも、私達の霊(魂)は一体であることをどこかではわかっている。だからこそ違いの中で同じを見つけ出したい衝動が隠れる。自分と他者の違いの中で、なんとか折り合いをつけようとする。違うけれども同じところがあるかもしれないと肉体視点で見つけようとすればするほど、霊的には決定的な違いとして感じるというパラドックスに葛藤する。

同じでありたいのに、同じでいたくない。

これが私達の心の中にある葛藤である。それは個人としての競争心や攻撃心となり、自我がより一層強化されてしまう。

ここにおいて対極の①おひつじ座を思い出せばいい。私達はそもそも分離していない一体の存在だった。一体は最初から「完成品」なのである。いつしか自他との境界に苦しみ、完成していたはずのものを「未完成」だと思い込んでいたことに気づくはず。

他者は、自分が否定していることを見せてくれる。その為に違いを見せてくれているのだ。他者は自分そのものである。このあたりでうすらぼんやりと分離感から一体感への帰還がはじまる。


⑧さそり座

生命感覚。肉体を超えて、時空間をこえて、繋がっているという感覚を必死思い出そうとする。肉体的な死生観と霊的な死生観は真逆なのである。

現実では、生と死という区別があるが、一体しているものの中に「生」と「死」に分離できるものは無いはずである。

肉体的な死は、私達を怖がらせ、不安にさせ、傷つかせるものであるという自我の思考である。分離していると思っているからこそ個々の肉体が存在し、その中に心(魂)が入り込んでいるということを信じてない限り「死という概念」は霊的には存在しない。

対極の②おうし座は、こうした分離の概念が現実的に偏ってしまっていることに気づかせてくれる。自分が勝手に意味づけしてきた(思い込み)の中で、本来の分離では無い視点(パラドックスの部分)がすっかり失われていることに気づかせてくれる。

人間的な「生と死」というテーマは、私達の心にある無意識の罪悪感を浮き彫りにする。その罪悪感に伴う恐れは巨大で、その恐れに必死に抵抗しようとする。

「生命」とは本来永遠であるはず。分離ではない一体であれば、「死ぬ」という概念がふかのうなのである。「在るか、無いか」だけなのである。


⑨いて座

運動感覚。

私達は、本質を探す旅をする。狭いか壊れた中から、意識はもっと広い所に飛び出せるのだ。今自分の意識がどこにいるのかをしり、その意識は自由に移動できる。

自分が忘れようとしたことによってできてしまった「未知」という領域に、再び触れることを望んで、魂は旅に出るんです。

未知を知るということは、本当はそれを知っていたという事に気づくことでもあります。

そうだ、と信じていたことが、そうでなかったかもしれないと、知性がはたらくのです。

私達は自分が信じたことが、そのまま体験という形で実在かさせる。自分が作り出した分離の世界には思い入れがある。だからこそ、それを持ち続けたいという葛藤がなかなか無くならない。それでも、「真実」に近づくうちにあなたはその真実にどんどん引き寄せられる。


全ては思考から始まっている、自分が作り出した思考への思い入れであると対極の③ふたご座が思い出させてくれる。

私達の発する「言葉」というのは、言葉にならないようなものを無理やり言葉の枠にはめている。霊は、そうした「言葉」という狭い枠には一切囚われていない。


⑩やぎ座

均衡感覚。

バランスを取る、というのは「偏り」から生まれる行為です。

中庸というのは、どちらかに傾く可能性が残っているのです。

その傾きに気づくと、バランスを取っていること自体に疑問がでてくるんです。重力と無重力の狭間にいるのに、いつしか私達は重力の中で生きるのが当たり前になってしまう。


バランスというのは、そもそも「取ろうとしなくても取れているもの」です。

なぜなら、あなたがこの世界に「完成品」として生まれている以上、この世界に見るのも全ては完成品なのです。

これが宇宙の法則です。

対極の④かに座は、この世界の矛盾を聞き分けるものです。両方が聞き取れて初めて本当の意味で選択が可能になります。


⑪みずがめ座

嗅覚。ここにくると自分が見ていた世界の「うさん臭さ」に気づきます。

つまり「自我」が何なのかが明るみに出てきます。何かが違うと本当の自己(霊)をだませなくなるのです。

ここでもなお、自分は「特別」だという自我は抵抗します。

みな完成品として、優劣が無いということを赦せないのです。こうした葛藤の中に自由はありません。何かが違うというこの違和感に長い間囚われていたことに気づく時、対極の⑤しし座の情熱を思い出します。自分の中で消えることのなかった「真理への熱望」がよみがえります。


⑫うお座

味覚。

食べ物が体に入り、自分の一部となるように、「一体化」が象徴されています。

分離という違いを見る世界のなかに、「同じを見る」という決心ができてきます。

葛藤を終わりにするということは、分離を終わりにするという決意でもあります。

分離は「在る」という概念を生じさせます。

一体であるものは、「在る」なんて発想するら存在しないわけで。ただそうであるという究極の確信が「一体」であると、ようやく自分に赦してもいいかもしれないと思うようになります。

これが、対極⑥おとめ座の視覚が、「肉眼」から「心眼」に変わる瞬間です。

同じ世界を全く違う解釈、知覚になるのです。


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要点を簡単にまとめましたが、つまりは、12サインの物語というのは、

「分離」から「一体」へと還っていくことを象徴しているんです。

占星術は、地上的に個人の体験に重点を置くものが主流の現代ではありますが、そもそもはこうした「霊的な視点」が背景に含まれています。


「今とは違う何者かになろうとする」と必然的にもっと今の現実的状況を良くしようと思ってしまうのが人間の心理です。

でも、そうした「何かを追い求めること」が苦しみを生み出していることも認めていく必要があります。

「良い現実」を選び続けるのは不可能で、しかもその「良い現実」とジャッジしているのは誰?という話です。

ジャッジ、比較、選択、判断、が「分離を意味している」ということに気づく必要があります。


自分の視野や視座によって、占星術の世界観は違います。

色々な楽しみ方がありますのでね。


今回は、私個人的にいつも見ている世界観を言語化してみました(^^♪

世の中の流れか、スピの流れか…

「変わろう」って思い過ぎているかもしれないな‥という話。


そもそも「今の自分ではない別の何かになりたい」という願望が「変わりたい」という考えや行動に繋がります。

ようするに、そもそもが「不足感」「欠乏感」「このままじゃダメという否定感」「恐れ」からくるものであるということです。


「何者かにならなければ」と考えている間はずっと「未完成の自分」と思い込んでいるわけ。


みな、生まれた時が「完成品」です。

だから既に完成したものを「未完成」だと考える必要がないわけで。


完成品に優劣はなくて。

その完成品が並んでいる世界で、誰がそれを完成品ではないと考えているの?


もう一度言います。

「あなたは既に完成品です」


これにピンとこないあなたは、

全てが完成品で、公平であるのが嫌だと思っている。

だから、「非売品」の自分になろうとする。

非売品は特別だと、他と比べる必要なんてないのに。


そうやって自分の価値を自分が決めてしまっている。

その価値基準に自分で苦しむことになる。


よく、「今の自分を変える」ワークやメソッドがあるけど、本質を見失わない方が良い。

より心が自由に軽くなるために変わるのと、

現状をもっと良いものにしなければという不足や不安ベースで現実を変えるのとは、

「変える」の意味が真反対になる。


「変わる」の言葉にも、二通りあって、その意味合いは真逆で、これがパラドックスである。

現実的な意味合いと、無意識の本来の自己(ハイヤーセルフ的)な意味合いは、

全く解釈が逆になるのである。


だから、個人のあなたが「変わりたいけど変われない」というのも、

現実の個人的解釈なら、変わるために行動をとろう、思い切ってブレイクスルーで行動から始めたら変われるかも、とか。色々やるわけで。


でも、ハイヤーセルフ的解釈なら、変わらなくても既にそれが最善。完成品は不変。だから何者かに変わろうとするのではなく、今のままで変わらないで良い…という解釈になるんです。


自分の思考には2パターンがあって、一つは自我的(現実的個人)の視点。

もう一つはハイヤーセルフ的(意識・魂)視点。


同じ「変える」という言葉には、全く違う視点が含まれている。

言葉に縛られると、二つの内のもう一つが見えなくなる。


意味を持つというのは、人間独特の思考。

何も意味ない、というのが霊的思考。


このパラドックスに気づいていく事が「目覚め」へのプロセスなのだと。

このパラドックスによる無意識の葛藤に気づかない限り、この世界のループ構造からは抜け出せない。


まぁ、よくできた自我の世界だなとつくづく思うわけです(笑)

スピリチュアルな話で出てくるハイヤーセルフという概念。

簡単にいえば、自我の対極にあるもの。

自我もハイヤーセルフも、何か形ある人のような存在ではなく、意識、

つまり「思考体系」です。


ここで勘違いしやすいのは、対極にありますが「対立していない」ということ。

自我も自分の心の一部。ハイヤーセルフも同じ心の一部。だから、自我を排除はできません。


自我の思考を邪魔者扱いするのではなく、悪でもなく、

そこは否定しないこと。自我の思考に優しさを持つことです。


その優しさで自我はリラックスできます。自我がリラックスすればハイヤーセルフの思考が動きます。

そのハイヤーセルフは、霊的な高次のエネルギー、つまりあえて「神の意志」と表現しますが、それと繋がるための経路を通してくれる思考。

つまり源との繋がりを思い出させてくれるために、人間の思考をそれに対応できる状態に導いてくれるというわけです。


思考を超えたところへと私達の意識を繋げる橋渡し的なのがハイヤーセルフと考えるとわかりやすいかもしれませんね(^^)/

あなたが、何か解決したい、克服したいと思っているその「案件」。

要するに、あなたが「問題視していること」。


その解決したい、と思っているその思考が、

その問題をそこに在り続けさせていることに気づいていますか?


解決すべき問題がある、とあなたが信じている間は、そこに在り続けます。

解決できた、克服できた、と思ったはずのその案件が、再び自分に舞い戻ってくるのではないかと不安になることはありませんか?

これは、問題があなたの頭から無くなってはいないからです。


解決しない、克服しようとしない。

そこから気づく何かがあるはず。


あなたが「こうなりたい」と思っていることも同じ。

「こうなりたい」には「こうなりたくない」が隠れるよね?

「こうなりたくない」から、どうにかしようとするわけで。

そうなってしまわないように努力するわけで。

それは、そうなってしまうことを問題視しているからであって。


理想の自分を求めることも、何かを問題視しているんだってことに気づくと、ちょっと視野が広がるよ。


問題は、何も無い。あなたの頭の中以外には。

思考は、問題を作り続けたい。

なぜなら、その問題から逃れたいという、恐れの心理に漬け込むことが、自我の仕事だから。

思考との付き合い方、向き合い方にはコツがある。



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