あなたが、何か解決したい、克服したいと思っているその「案件」。

要するに、あなたが「問題視していること」。


その解決したい、と思っているその思考が、

その問題をそこに在り続けさせていることに気づいていますか?


解決すべき問題がある、とあなたが信じている間は、そこに在り続けます。

解決できた、克服できた、と思ったはずのその案件が、再び自分に舞い戻ってくるのではないかと不安になることはありませんか?

これは、問題があなたの頭から無くなってはいないからです。


解決しない、克服しようとしない。

そこから気づく何かがあるはず。


あなたが「こうなりたい」と思っていることも同じ。

「こうなりたい」には「こうなりたくない」が隠れるよね?

「こうなりたくない」から、どうにかしようとするわけで。

そうなってしまわないように努力するわけで。

それは、そうなってしまうことを問題視しているからであって。


理想の自分を求めることも、何かを問題視しているんだってことに気づくと、ちょっと視野が広がるよ。


問題は、何も無い。あなたの頭の中以外には。

思考は、問題を作り続けたい。

なぜなら、その問題から逃れたいという、恐れの心理に漬け込むことが、自我の仕事だから。

思考との付き合い方、向き合い方にはコツがある。



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どんな生き方でもいい。

どんなやり方でもいい。

楽に生きても、

頑張って生きても、 無理して生きても、ただそうであることを自分に許していくだけ。

それは、思考や感情を抑圧することではなく、力づくの思い込みでもなくて。

それを、一歩引いて眺められるようにしていくこと。

考える力を身につけていくこと。見極める力をつけること。


たまに一人で息が詰まったり、愚痴りたくなったり、道がわからなくなったり、悩んだり、迷ったり、焦ったり、もがいたり、それは誰でも色々あってさ。


それでも歩き続けることはやめられないんだから、話したい時に話せる人がいるって心強いと思うんです。Facebookグループ内で週一回みんなとおしゃべりできる場です。


これでいいんだなって心から思える自分になろう!

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記憶って曖昧でね。

自分が記憶する幼少期のことの大半は、本当かどうかわからないものばかり。


あの時、お母さんにあんな風に言われて…

という記憶も、お母さん本人に聞いてみたら、「そんなこと言った?」「そんなつもりなかったよ」と言われるのがオチです。


記憶は、自分が留めておこうとすれば、いくらでも反芻して忘れずにいることができる。

その記憶って、そんなに大事かな?


楽しい記憶も、悲しくてつらい記憶も、それはもうただの記憶で。

それは、今となっては実在性が薄くて。


だから、「忘れちゃいけない」っていう呪縛から、もう自分を解き放ってもいいかもしれないよね。


忘れない、ということは、誰かを、自分を責め続ける行為でもあるから。

心配する、という行為は、自分の恐れを他者に見ているだけ。

心配するより、全ての人は「大丈夫」だと、信頼と優しさのまなざしで見てあげればいい。

不安にさせるのではなく、心が和らぐ声をかけてあげればいい。

誰かを「間違っている」と指摘することは、「自分自身が間違っている」と自己責めしているのと同じ。

私だけは違う、私は正しい、そうした傲慢さは、自分を苦しめるだけ。


誰も何も悪くない。

誰も悪気はない。

自分が他者に「悪」を見なければ、そこに善悪は生じない。

罪悪感も生じない。

この世界に罪を見ないことが、愛ある行為のひとつ。

許し合うのではなく、許す必要性がない世界線。


この世界に、あってはならないものは無いし、

無くてはならないものも無い。

自分に嘘をつかずに、自分を抑え込まずに、本当にそう思えるように誰もがなれる。

その思考は、誰でも訓練できる。

誰もが、恐れの無い状態で生きることは可能。

スピリチュアルに形は無い。

答えも無い。

理由も無い。

理解できない。


スピリチュアルは、ただ経験的に「知ること」であって、それが何かを解説できるようなものではない。


でも、人間は、どうも意味を欲しがる。

わかった風に説明したがる。

だから、この現実レベルに落として、スピを語ろうとするし教えようとする。


でも、それは誰にもわからないし、誰にも教えられないし、誰にも伝わらない、それがスピリチュアルなのだと思っている。


いくらでも、こじつけはできるし、現実逃避の材料にもできる。


そんなスピリチュアルを、そもそも仕事、商売になんかしない方が良いとも思う。

でも、人気が出るのもよくわかる。

ま、どっちでもいいけど。

自分が正しいっていう、正当化から退かない限り、無意識の罪悪感は手放さない。


攻撃のない世界

罪悪の無い世界

恐れのない世界

これがスピリチュアルでもある。

怠けるって、ネガティブなワードですよね。

「怠けてはダメ」

多くの人がそう無意識に刷り込まれています。


でも、怠けることが、自分らしくなるための最短です。


自分の許容範囲、自分にできること、自分に必要な事、にフォーカスするには「怠ける」のが一番早い。

「できるはず」

「人並みにできるようになろう」

「もっとできるようになろう」

「怠けていたら、誰も助けてくれない」

「頑張らないと」

「役に立たないと」


そんな風に思ってるんじゃないかな?


怠けても大丈夫。

全人類怠けたら、たぶん世界は平和だと思う。


前回、記憶について書きましたが。

記憶が薄れるからこそ「執着」もなくなるんです。

忘れるって最強ですよ。


あんなことがあった、こんなことがあった、自分が・・・あの人が・・・・

こんなこと考えてたし、こんな風に感じたし・・・・

↑これがいわゆる過去の(記憶への)執着です。

これに苦しめられるわけ。


楽しい時間を過ごした後に、その余韻が長い人って、あの楽しかった体験をまたしたい、もっといい楽しい体験をしたい、っていう思いがあると思います。

悲しい出来事に対しては、あの時もっとこうすれば良かったとか、もう二度とそんな思いしたくないとか、そうした思いがあると思います。

これらもまた、一つの執着から生じる感情です。こうした感情が、それと繋がるように次の行動に結びつけようとします。

こうやって、過去が未来方向へと繋がっていく。


でもこれがそもそも苦しみの原因なのではとも思うわけです。


楽しいことは、その時目いっぱい楽しむ。それが終わることを寂しく思いつつも、「楽しんだ」という結果だけを持って、次の新しい瞬間へと移行する。

悲しいことは、うんと悲しんで。でもそれも「悲しかった」という結果だけを持って、次の新しい瞬間へ移行する。

それでもいいんじゃないかと。



うちの子供達ね。まああっさりしてるんですよ。

もう何か月も前から楽しみにしている事も、その日に目いっぱい楽しんで、終わってしまえば、次の日から全く普通通り(笑) 

楽しんでるときは、終わりたくない、もっとしたい、とか言いますけど、過ぎてしまえば、あれ楽しかったね、とか、思い出すらあまり振り返りません(笑)

それと同じく、逆に悲しい出来事も、振り返りません。あとに尾を引きません。


おばあちゃんがなくなった時も、何か悲しい…寂しい…って味わって、もう次の日ケロっとします。

友達とお別れした時も、めちゃめちゃ悲しくて泣いて、でも次の日ケロっとしてる。

こないだ家の前で死亡事故があった時も、心臓マッサージされてる死にかけた人を見ても、「助かると良いね」って言っていいながらじっと見つめて、うちの敷地に飛んできた大破したバイクの破片や吹っ飛んできたヘルメットを拾い、その後交通誘導を手伝い、普通ならトラウマにならへんか?って思うのに、そのあとすぐに食べかけていた晩御飯の続きを普通に食べている。


これね、実は子供に限った事ではなく、私もなんです(笑)


うちの家族、何となく、出来事が「おおごと」として捉えていないっていうか…(笑)

大抵のことは大丈夫っていうか、全部ありえるよねってくらいで。

感情薄め。記憶薄め。というか過ぎたことはどうでもいい派(笑)


人間界で生きる人間としては、少数派かもしれませんね。

私も昔から、冷たいとか、冷めてるって言われることもあるけど、それと同じくらい優しいね、明るいね、も言われますよ。


結局ね、何でも「主観」なわけで。

「こうあるべき」は完全な「主観」。

色んな先入観、思い込み、概念で、「こういう時はこうすべき」に囚われてしまう。

だから人からどう見られるかも気になってしまう。

良い人でいようとしてしまう。


共感すべき

過去を大事にすべき

感謝すべき

自分らしく生きるべき

心地よくいるべき

嫌な事は止めるべき

いらないものは捨てるべき

こういう時は悲しむべき

気遣うべき


ポジティブでもネガティブでも、「すべき」の時点で制限だから(笑)


あらゆる概念を疑う。あらゆる制限を取っ払う。


そこには「愛」しかないと思うけどね。

その愛のままに、思うように行動すればいい。

記憶を過去だと思っていると、人生に「連続性」が生じる。

つまりは時間軸ってやつね。

過去が原因となって、今の自分ができている。

普通に皆そう思っていますよね?


でもそれって本当ですか?


記憶って、過去ではなくて「今」です。

今、記憶を反芻しなければ、それは連続性のあるものではなくなります。


過去そのように体験したと思っている自分は本当ですか?

今この瞬間に、それを体験したことが無い自分になることも可能です。


記憶って、要するに、思考でもありますけど…

なんか、曖昧過ぎなのに、みんな信じすぎ。


過去の記憶をそんなに大事にしなくてもいい。

私は個人的にそう思うようになってから、実際に過去の記憶が薄くなってます(笑)

頑張れば思い出せますけど、あえて思い出そうとしなければ忘れてます(笑)

でも、そうなると思考って動かないんです。

そうなってからの方が圧倒的に、不快がないです。


「記憶」って、まあ「エピソード」が必ず絡むわけで。そのエピソードの連続がいわゆる人生ですが、その連続性を疑ってみるといいですよ。


記憶ってほんと曖昧だから。

心配する、案じる、気遣う、様々な言葉としての表現はあるけれども、

大抵は、「不安」からの「案じる」ではないだろうか。


これらは、何となくポジティブな雰囲気で使われていると思うが…


結局は自分自身の「恐れ」からの不安視なわけで。

相手に、良い意味で、良かれと思って、「相手のことを思っています風」に表現するこれらの陰に、自分の恐れを隠しているということに気づかない。


自分の不安や恐れを相手に押し付けてしまう。

アドバイスにしろ、説得にしろ、やんわりと気遣う風に語るにしろ、そうした自分自身の不安ベースで言ってないか気をつけるようにしてます。


自分自身の恐れから、その恐れを回避しようとするための表現になっていないだろうか。


これは相手に対する「攻撃」であり、自分のいう事を聞いて自分のことを守ってくれと言わんばかりの身勝手である。


他者にこれをするということは、それを自分自身にやっているのと同じです。

全く同じことを自分の心の中でも日々やっています。


案じるということは、今何かが足りていない、何かが不安、何かが起こるだろうという期待がそこにはある。


これは自我の思考。

相手が、無垢で純粋なほど、あなたはその人を憎みます。

親子関係が一番わかりやすいですね。

例えば、子供って、制限なく生まれて、無垢で、純粋です。だからこそ、親はこう思います。

「子供のうちはゆるされるけど、大人になったらそうはいかない」

こうして、大人の世界、現実という制限を、子供も経験せざるを得ないのだと教えます。


そんなことしてたら、自立できない。

ちゃんと仕事もできない。

みんなから信用されない。

認めてもらえない。

社会では通用しない。

生きていけない。

こう脅します。


こうして、純粋、無垢のままでは、この現実では生きていけないのだと教え込まれちゃうわけです。


この制限に、人間は苦しみます。

ああしなければ、こうならなくては、こうすべきという正しさを必死に求めて、そして子供のように純粋で無垢で、素直でありのままの人を憎みます。

どうして私ばっかり、こんなに頑張らなくてはいけないのか、こんな苦しい思いをしなきゃいけないのか、どうして、わたしだけ!

子供をコントロールしたくなって、しつけという名のもとにイライラを当たり散らし、子供の意見というより、もはや親の意見、親の理想の子供像に近づける為に子供を誘導する。

愛する子供を憎むって、すごい矛盾ですよね。

本当は大事に思ってるし、愛してるのよって言いながら、あれしちゃだめ、これしちゃだめ、と制限したくなる。言う事を聞いてくれなかったり、親が子供に与えた役割をこなしてくれなかったら、親は子供を責めますよね。

そうした子供時代を経て、いずれ、おおきくなると、ある程度親の願い事や期待通りにこなしてくれる子供が「親思いの良い子」として親に感謝されるようにもなる。


親にとって子供は、

子供に苦労させられるという「罰」から、そのうち自分のために動いてくれる子という「報酬」に変化する。

こうして、「自我の思考」が見事に現実化する。

こうしたことは全て、自我の思考から生まれます。

「自分ばっかりこんな目に」という思いは100%他者への攻撃と憎しみと復讐が込められた行為へと繋がります。


みんな、子供のように純粋無垢ではいられないのか?

ルールもなく、赤ちゃんが許されるように、みんなが許されている現実は無理なのか?


ルールが無ければ秩序が保たれないというのはうそだと思う。

ルールは少なくとも善悪の判断の材料となってしまう。

そのルールに従わない人を見張る人、それを罰する人がいれば、必ず「立場の差異」というものが発生してしまう。


つまりは、ルールって本質的には必要のない者なんだと思うけど。

無いとどうなっちゃうんでしょうね。

ルールがなければ、「犯罪」という枠組みもありません。

逆に「正義」という枠もありません。


何か人間がルールを作れば、必ず、善と悪が発生するんです。

こうした分離の考えが、この世界全体を覆っている限りは、完全な平安は無いのかなって思います。


でも、ルールが全くない、一回そういう世界も味わってみたいもんです(笑)。

案外、宇宙の法則通りなら、秩序は保たれ、愛の世界になるかもしれませんよね。


現実創造が流行ってて、思い通りの人生を手にするとか、スピっぽい話を交えたり、量子力学とか、物理とか、化学とか、いかに好みの現実をつくりだすかに、人間はものすごく興味を持つ。


結論から言うと、

「自分には、何も作り出すことはできない」ということです。


私達は「分離していない」

全てはひとつであり、源と同質。


バラバラな中に全体が含まれていることには気づかないのが自我の思考です。

バラバラに認識するのは「肉体」を信じているからです。


分離していない、これが確固たる前提であれば、この世界は自分で作り出せてもいないし、また、この世界が自分を作っているのでもない。

母親から生まれた自分としてのスタートを信じているし、この現実が「ある」という認識でいるけど、最初からそれすらがない。

だけど、この人生、この現実を、いかにうまくいかせようかと、一生を通して求め続ける。

望む現実が手に入る、と思っているその思考こそが、分離を信じている自我の思考。


この自我の思考がもたらすのは「苦しみ」というゴールです。

罪、罪悪感、それに伴う恐れというゴールです。自我の思考は有罪性の上に成り立ちます。

分離しているということそのものが「罪」という概念です。

そして、その苦しみを追い求め続けていることに人間は気づきません。

それは、この世界が自分に褒美(報酬)を与えることもあれば、罰を与えることもあるからです。アメとムチが存在するから。

疑いなく、そのなかでなるべく報酬が欲しいと求めるわけです。


罰を受けて当然だと思っているのは、罪の概念を信じているから。

この世界の創造主で、この世界を作り、自分という自我を創り出せていると信じているから。


私達は現実の創造主ではなく、何も創り出してはいません。

分離していない、という概念からであれば、何も創り出せないことは簡単にわかります。

それしかない、他に何も無い、独立して存在するような分離は不可能なのが「分離していない」という意味です。


こういう理詰めで考えていくと、

「私達は何も創り出すことはできない」これに着地せざるをえません。


理想や期待、望む現実がきっと手に入るという思考自体が、この苦しみをもたらす自我の思考のループから抜け出せなくなるのだと思います。


でも、人間やっぱり、こういう人生にしたい!っていう肉体にまつわる何かを欲してしまう。

内観で見るのは、こうした奥深くにある本質、自我の思考の構造です。


輪廻という概念が信じられているのも、自我の思考であり、「肉体ありき」の発想です。

肉体ベースで考えることを見直すことが「霊」と繋がる方法でもあります。

これまでの当たり前を疑って、新しい概念を取り入れていくことが、本当の意味での解放なのかもしれませんね。


私も日々内観と訓練です(笑)

本当の安心、心の平安って、結局は現実とは関係が無いんだなって。

人生上手くいけばきっと幸せ。

お金があって、家族がいて、助けてくれる人がいて、毎日楽しくて、健康で、好きなことができて、やりたいことやって、自分らしく入れたら・・・・

生きている限り、現実が実在すると信じる限り、理想や目標や期待は無限に湧いてきます。

しかも「上手くいけば」というのは自分のさじ加減であって、好みであって。

それってゴールのない欲求にもなってしまいます。


本質的に、私達が「霊」として何を目的に、どこへ向かっているのかを突き詰めていくと、何をすればよいのかが自ずとわかってきます。

私自身、それに納得するまで何年もかかっているし、今もまだそれに囚われる自分もいるし。でも、本当の自己が目指している、望む所って何か?を理解すればするほど、自分が良かれと思っているようなものを望んでも仕方がないことも理解できる。

形而上学を理解すればするほど、わかってくることがある。それは、

・心と体は繋がっていない

・起きること(現実)に干渉しない

・自分では何も創り出すことはできない

・望む通りの世界が作れるという思考を手放す

・世界の実在性を疑う


これに尽きるなと思いました。

スピリチュアルが流行り、望む現実を手にしよう、願いを叶えよう、自分を満たそう、嫌な事はやめて好きなことをしよう、自由でいよう…

これらを、すればするほど私達の心は迷走するようになっています。

でもそれを良かれと思ってやっているわけですから、やめようとはしません。


現実創造に囚われ、理想を追い、現実に干渉し、手にしようと頑張る。ここからぬけられないわけで。


だからこそ、真理の探究のための形而上学の理解が「心に戻る」助けになりました。

苦しみの元凶は?恐れの源は?

それらを紐解くには「分離」という概念を理解することが避けられません。

二元性、二極性、の性質を持つ「思考」の構造の理解がなければ、私達がループから逃れることも、源へと帰還することも出来ません。


自分が思っているような安心や幸せとは、比べ物にもならない、何かがある。

それがこれからの時代、段々と明らかになっていくのではと思う。

区別しない

比較しない

選ばない


つまり完全なる「公平さ」を見ることでしか、私達が「葛藤という苦しみ」から抜ける方法はありません。


わたしとあなたは別々の人生を歩んでいるように見えるけど、わたしとあなたは、全く「同じ」という視点があります。

それは、わたしとあなたの「存在する目的」においては「同じ」だということを知るということです。


目的が同じなら、みんな同じです。

ただ、違うプロセスを辿るようには見えるかもしれないけれど、目的が同じなら、これはもう「同じ」なんです。

私はあなたと何も違わない。


そんな風に見ることができたら、きっと苦しみはなくなる。


他者は、私の一部であり、他者は私の一部だから。


どちらかを傷つけるなら、それは自分を傷つけているだけ。