問題なのは、

思考したことでもなく、

そうした考えを持ってしまった事でもなく、

ジャッジしてしまった事でもなく、

手放せないことでもない。


問題なのは、自動的に湧いてきたその考えを「信じたこと」。


「思考している」ことに気づいても、それを信じているとは思っていない。これが盲点です。


自分の頭の中の会話を紙に書き出したら、自分の中にあるものは一目瞭然です。

思うがまま感じままに書き出したら、「私こんなこと考えてる」って客観的になれます。

そして、これが思考(ストーリー)なのかと自覚もできます。


そこからです。

その考えをいとも簡単に信じてしまったことを疑ってみるんです。


この世界は不完全だからこそ、ほころびがある。

それを見つけることが、希望の光をみつけることになる。


ストレスからの完全解放を目指すためのワークです。

こうした心の力動がわかるジワークショップを随時開催しています。


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これは起きてほしくない。

これは引き寄せたくない現実。


これは起きてほしい。

これは引き寄せたい。


こうした対極の思考が二元、二極思考です。私達人間は機能としてこの思考体系を持っています。


この一件ネガティブ視していることも、ポジティブ視されている考えも、これはどちらもお互い共依存的に発生する「意味」ですよね?


これを引き寄せたいと考えることができるのは、あれは引き寄せたくないと違いが見えているからです。


つまり、これは起きてほしくないということを手放すのであれば、これは起きてほしいということも同時になくなるはずなんです。

なのに、良いことだけを引き寄せたいと思って、嫌なことがあれば引き寄せ失敗したと嘆くわけです。


私達は引き寄せ率は常に100%です。

その事象に「良いこと」「悪いこと」という概念をくっつけているだけ。


そう頭でわかっても、良いことだけ欲しいと、それが手に入るはずだと、どこか無意識では頑なにそう思っているんですね。だから葛藤が終わらないです。


こうした心理構造を理解すると、何だか自分の考えてること、やっていることが滑稽にみえてきます。


どちらでもいいし、何でもいい。

そう思えない限り、何かを、良かれと思うことを選ぶことに終わりはないってことですね。


何も選べないからこそ、全てを受け容れるしかない。

一部を受け容れるのではなく、全面的に受け入れることでしか、悪魔の鎖はほどけないのだと、そんなことを考えてます。

私達の葛藤、苦痛は何故生じるのか?

思考や感情のプロセス、心理の動きの構造は、全ての人が同じ。


日々の人生ドラマは様々でも、一人ひとりがもつ心理的構造は同じ。

「二元的思考」であるということです。


この二元的思考の私達は「葛藤」が終わりません。それは、選択肢がある世界だから。何かを選ぼうとしたら、何か別のもの(対極性)と比べることが必要で。

違いが見えた上で、どちらが良いか(正しいか)を決めて選ぶ。


価値観、概念、俗にいう思い込みをみんなそれぞれもっていて、そのように世界を見ていますから、誰一人同じに見ている世界ではありません。


でも、この「違い」は見ているものそのものではなく、自分の「思考」の中だけのことで。

要するに自分の考えに沿った、ものの見方、解釈をしているだけです。


これが何を生み出すか?個人の世界観で物を見るからこそ生じるのが、

区別、比較、競争、攻撃心、保身、裁き、処罰、恐れ・・・

私達の苦しみは、こうしたものなのだと思います。


これは、実際にそうしたものがあるのではなく、何も意味づけのない世界を、自分の考えでそのように解釈しているだけなんです。


つまり、現実そのものに悩むのではなく、「自分の考え」思考に悩んでいるんです。


なので、思考を止めるワークとかもありますよね。


思考が動き続けるという事は、ずっと頭の中でストーリー展開されていて、記憶や情報を使って判断しながら、「これはこういうことだ」という意味づけ、結論づけをし続け、それをやっているから葛藤が生じます。


私達はジャッジすることがやめられません。

ジャッジとは、特定の何かにおいて良い悪いを見ることではなく、「違いを見て選ぶ」という全ての行為がジャッジであるということ。


思考が動く=ジャッジ(判断)している。

ということになります。


思考が静まると、葛藤は確実に減る。

その訓練をコツコツするだけ。

どうしても、自分でできる!自分ならできる!できるはず!

こうして、現実の色々、思考の色々、感情の色々をコントロールしたくなる。


委ねるんだぞ…と言われても、全面的に委ねる難しさよ。


ここは委ねるけど、これは自分でやります…

そんな風に部分的な「委ねる」は、結局委ねていないのだなと思う今日この頃。


全面的に委ねるとは、どういうことか。

委ねる怖さと、淡い期待を抱きながら、この部分を日々学んでいるのだと思う。




説明ができない

説明がつかない


のではなく、

説明がいらない

説明の必要が無い


ものが真理なのだと。


この世界では、これってこうかもしれないね…っていう「仮説」の域からは出ないものの、何となく納得できる説明はできることばかり。


でもそれはどこまでいっても「もし…」という仮説でしかなくて。

だから真理がない世界なのだと。


真理は、「もし…」がない。

何か?がない。


人間が追い求める「何か?」はない。


という事になると思ってます。


何かを手にするのは簡単。

物、お金、状況、環境、人脈、体験、感情、気分、あらゆるものを「手にすることは簡単」

それは「手にすることが目的」だから。


でも一度手にしたものを手放すのが惜しくなる。

それは良いこととしていることも、嫌なこととしていることも、どちらでも、手放すからにはこれ以上の何か、もっといいもの、代わりとなるもの、という損得勘定が入っているから。

手放す代わりに「こうであってほしい」という欲求がセットになるから。

手放したら成長するかもという期待=手放してしまったら、悲しいかも、後悔するかも、失敗するかも…という不安


やっぱり今手放すのは止めよう…


そんな風に、一度所有すると手放せない。

これは何でもかんでも「自分のもの」とおもいすぎているから。

なくなってしまったら、自分の一部が無くなったように感じるから。

だから「それがないと困る」という思考がなかなか取れない。

所有感であれば葛藤はさけられない。困らないようにひたすら所有し続けるか、もっともっとと手にするものを増やすか。

所有感=存在感だから。これはどこまでいっても並行線。


「なくてもいい」

今ある環境や物や人がなくなっても、それでも大丈夫なら、それは本物の安心感。揺るぎない安心感。


外の環境や物や人への依存=恐れに対する依存。


このからくりは本当によくできている。

目の前の世界、目の前の他者を

「見たくないものをみせてくれるもの」としてみているとしたら、それは一枚目の鏡。

表面的なやつ。


「見たくないもの」だけでなく「見たいもの」も見ていると気づき、その両方を否定していることに気がついたら、二枚目の鏡が現れる。

それは「何を望むかに関係なく見たいものしか見えない」という鏡。


全ては見たいものだけしか映し出されないことを知ると、三枚目の鏡が現れる。

それは「何も映っていない鏡」。


何も映っていないと知れば、その先に現れるのは?

それは「鏡なんて無かった」という事実。

鏡を自分でおいていた事実。

真実を隠し続ける為に置いた鏡であるという事実。


ここで初めて、ここには「何もない」という事実を知る。


何枚目の鏡を内観しているのか?

これはなかなか自分ではわからない。

二枚目のつもりが一枚目という事もよくある。


次の鏡に気づくまでは、今はこの鏡しかないと思うから。

キリストの十字架刑。

罪のないキリストが処刑される場面。

それを見る人々は罪悪感を感じたであろう。

キリストを貶めた者、キリストは無罪だとわかっていて何も言い出せなかった者、何も関係がない者も見ていて心苦しくなるであろう。処罰する側も心が痛んだであろう。


そう、あの場面は完全に「罪」というものが象徴されている。

罪、罪悪感、処罰への恐れ。


宗教的な解釈はどうか知らないけれど、

私はこう解釈します。


キリストは、何もしていない。

私達を悲しませようとも、苦しめようとも、傷つけようともしていない。

見ている姿は痛々しいかもしれないが、キリスト自身は「何も思っていない」ということに気づけということだったのではないか?


私達は思考で世界を作ります。

肉体や、物や、自然や、ありとあらゆるこの世界を形成するものは全部思考。

見えるものに囚われなければ、心で生きることができる。

心は死ぬことがなくて、いつもここにある。


だから十字架刑のあと現に復活したわけで。

肉体を超えていたわけで。

復活したキリストは処刑される前の姿ではなかったわけで。

弟子たちは、見た目が違うキリストを最初はキリストだと気づかなかったけど、話すうちにこの人がキリストだと気づくわけ。肉体ではなく、心がそこに残っていたので、キリストを感じたってことです。キリストは誰の心の中にもあるんですね。


宗教的には、私達が罪悪感を感じ続ける為の解釈になっているけど、

キリストは、そんなもん最初から無いということをみんなに気づいてほしかったのではないかと。

罪という概念は、明らかに私達自身が作り上げたもので、それに怯え、囚われ、

手放したいのに、それがないと困るからとしがみつく。

そんな矛盾と滑稽さに気づきなさいとキリストはメッセージをおくっていたのではないか。


だけど人間は、区別や比較、攻撃、によって自分の身を守れると信じてしまった。

自分ではない誰かに罪を見ることで、自分には罪がないから安全だと言えると信じてしまった。

自分に罪が無いと思っていても、正しいと思っていても、この世界に罪の概念自体がある限り、罪悪感は避けられない。


他者に罪を見ないなら、自分にも罪がない。

他者に罪を見るから、いつか自分も罪を追い処罰されると恐れることになる。


どの状況においても、他者においても、自分においても、そこに罪を見ないことが、葛藤からの解放なのではと思っている。


だから、何もしていない。

外の世界では何も起こっていない。

見えてはいるけれど、見えているものに何かが起こっていると解釈をつけなければ、それはただの映像で。

それはそうなることが決まっていただけで。

あるがままであるということであって。

それらは始まりと終わりが同時にある場所になる。


この世界に意味を見出すことは、罪の概念の中に閉じ込めることを意味する。

意味をつけているのは自分。都合よく考えているのは自分。事実とは異なる別の答えを作り出したのは自分。

それに気づいた時、ほんの少し真理に近づくのではないだろうか


こちらの記事も参考に。

https://funky-funky.amebaownd.com/posts/53682412

誰も何もしていない。物や自然もなにもしていない。

状況や環境もあなたには影響していない。

あなたの心を傷つけるようなことや苦しめるようなことはしていない。


私達の思考は、何かが「ある」というプログラムになっていて。


あなたが苦痛を感じているのは、あなたが誰かや何かに「された」と思っているから。そうした状況が「あった」と思っているから。

あなたが楽しさを感じているのは、あなたが誰かや何かに「された」と思っているから。そうした状況が「あった」と思っているから。


でも本当は、思考しなければ、

「何もない」「何もされていない」「何も起こっていない」。


何のために、外の世界があるのか?

それは、攻撃対象をつくるためです。

「私は正しい」と言える材料。

私は悪くないと責任転嫁できる対象。

外の世界に、比較、区別、優越を見る為に、それらが「ある」という認識が起こる。


これが葛藤の原因で、これが苦しみの元になる。


そんな苦しみの中で、いくら愛を求めても、それは単に一時しのぎの誤魔化しで。


全てを解放したいなら、「何もない」に着地するしかない。


何もないから、心は穏やかでいられる。


苦痛がないから、悦びを感じられる。


外では何も起きてなくて、誰にも罪がない。

罪悪感というフィルターが取れた時、世界は全てはそのままで、全てあるがままで、最強の状態。

原因があって結果があるのではなく、

原因がないから、結果はひとつ。

原因=結果の世界は平和そのもの。


私達が赦すのは、攻撃対象として見ているものを赦すのではなくて、

何も起きていない、何も無かった、攻撃対象なんて最初からいなかったということを受け容れることを赦すのではないかと思う。


原因探しは、罪を見るという事。罪悪感を握りしめるという事。

原因を探して、それについて納得するのではなく、そもそも原因なんてものも無かったと知ると、罪という概念そのものがなくなる。


人に罪を見なければ、自分にも罪はない。

この世界全体が罪の概念を土台に動く。


世界全体が「闇」

でもその闇の中で、希望の光が見えてくる。

だから目を背けることができない。


ゴールは、「愛」を思い出すこと。

自分で作り出す愛ではなく、ただそこにある愛。


全てが一つでワンネスなら、

神=愛=私=愛=他者=愛。。。

愛そのものであることが、愛。


これは愛で、これは愛ではないと区別なんでできない。


いつか、愛というゴールにたどり着くことを心から信じて、この人生の旅路を歩めばいいのだと思う。その為には「自我」を手放していく事しかない。


自分の考え、自分の判断、自分の決断、そうした「自分」を脇に置いて、委ねて待つことを訓練しないといけない。


自分で思っていたようなものは何もなかった。

これが腑に落ちたら、もう悦びしかないんだろうな。

無いと思えないことから全ては始まっている。


無いと思いたくないから、有るを求める。


何かを証明するという事は、有る世界における仕事。


無い世界では、何もする必要がない。


何かをする必要があると思うから、この世界が成り立っている。


全てはない。


必要というものがない。


だから「全てがある」と言えるのだと思う。

無い正解に合わせて生きていないだろうか?


無いものは無いのだから、無い正解に合わせることは不可能で。


なのに「なにをするのが正しいか」と正解探しをしてしまう。


どれだけ「正しさ」にこだわっているのか。

自分で思っている以上に正しさに縛られているよ。


正解が良いと思うなら、

不正解のまま生きてみたらいい。


そしたらきっと新しい発見があるよね。

ありのままに見るとは、そこに何の意味もついていないということでは?


これって、こうだよね。という時点でありのままではない。


自分の価値観で意味がついている。


自分の考えを正解と思い過ぎない方が良い。