2025.09.30 10:45内観と現実は分ける分けるって?現実世界の中に気づきがあるのでは?確かにそうです。世界は心の鏡です。でも、多くの人が勘違いしている「思考が現実化する」これは、心が整えば「望む通りの現実が起きる」という意味ではないので…現実が上手くいってるかどうか? は誰が決めていますか?はい「自分」です。つまり、自分の意見として、そうであってほしい現実が「望む現実のかたち」です。でも、こころはそれに連動しているようでしていません。なぜなら、意識としての「私」がどう現実で表現されていくのか?は「お任せ」だからです。思考も感情も全自動だからです。コントロールできているようで、何もできていないから、流れに乗るだけなんです。流れに乗れている人が、成功しているように見え、楽しんでいるように見え、幸...
2025.09.27 13:04答えは思わぬとこに転がってた自分のことを話すのは、あんまりないんですけどね。今日は、何となくそんな気分になりました。「あんぱん」の朝ドラのヤナセ家のリビングの小道具に「はと車」の工芸品が置かれていて、何だかじっちゃん表に現れた感があってね。私のひいじいちゃんは、若い時から平和を願ってアケビつる細工を作り続けていた職人で…人生の後半は「世の中を まるく 眞和禮(まわれ)と はと車」 そんなメッセージを添えて、「はと車」という民芸品を世に出していました。善光寺の御開帳に合わせて行われた民芸品の博覧会で、今の上皇后さまの目に留まり、今の天皇陛下がお生まれになったことで上皇后さまに親子鳩を献上しています。そのはと車で天皇陛下が遊んでいるのがテレビで放映されて、めっちゃ売れたんだとか(笑)
2025.09.09 05:59AとA’二元性の思考は、必ず「Aである」という結論には「Aではない」という対極の結論があります。つまり、選択とは、「AかBか」ではなく、「AかA’か」なわけで。「そうである」ことに対して、かならず「そうではない」がある。つまり「葛藤せざるを得ない世界」です。ならば、「どちらでもいい」というか「どちらも同じ」という着地点にならないと、葛藤は起こるということです。この「どちらも同じ」とは、「すべてはひとつ」に根ざします。「A」も「A’」も「同質である」ということ。同じものに対して二つに分けたのは、自分の「思考」です。「解釈」した通りに見ているというだけ。本当は「A」も「A’」も同じ。でも、同じとは思えないのは、ここに「時間軸」があるから。私達は「〇〇したから、こう...
2025.06.20 05:00苦しみの中で見えてくる光明 夏至の決意苦しみに寄り添うというのは、同情するとは違います。苦しみを感じていない人は、この世界には存在しません。その苦しみに、大きいも小さいもありません。そしてその苦しみは、「愛されたい」という叫びです。誰に、ということではなく、愛に愛されたいんです。愛は究極の安心です。その愛はどこからかやってくるのではありません。私自身の奥にあるんです。苦しみの中だからこそ、その苦しみを否定せず、排除しようとせず、苦しみもあって良いと全てを受け入れようと許せたとき、そこに在った愛が、苦しみを溶かしてくれます。いつ、どうやって溶けたのかなんてわからないうちに溶けてなくなります。その時、初めて「愛はあったんだ」って気づくんです。でもそれは、自分の心の選択なんです。苦しみをあって良...
2025.06.06 08:15意志が最上位「こう在る」という決断の力が「意志」です。その意志に一致する「意図」、つまりその意志の方向性に向かう為に「自分はどうあるか」と意図するんです。その、意志、意図によって、その後の願望、信念、思考や感情の「質」が変わるんです。「こうなりたい」という願望には、「いまそうではない」「そうはなりたくない」「今は満たされていない」という不足感の含みがありますよね?そうした不足ベースの「願望を現実化させる」のではなく、「意志」から全て始まります。意志が最上位です。ここを見落とさないでください。「意志」とは、願望をはるかに超える「決断」「選択」の力です。たしかに、願望するという「何かを望む」からこそ、その方向に推進力が生まれます。でも、全てを超えていく「意志」が最も強...
2025.06.06 07:59全ては同意のもと親子関係に言えること。ガチャとか色々いわれるけどさ。子供が親を選んでるのか?親が子供を選んでるのか?ずばり、これは両方です。同意の下で「親子」として今ここにいます。同意しなければ今ここには何もありません。だから、子供の苦しみを親が背負わなくていい。親の苦しみを子どもが背負わなくていい。なぜなら、親子という関係性の中で同じテーマの学びがあって、その学びのゴールに向かって双方で勝手に調和がとれているはずだから。起きることは、どちらかの為にそうなっているのではなく、必ず同時にお互いのためになっているからこそ、しっかり向き合ったらいいと思う。まずは、親の価値観や経験則というフィルターを外して、今のまま、ありのままに、ここに在る我が子を見るだけ。親の考えがない所...
2025.05.30 08:32恐れを恐れないで「私はこう在る」と、選び直す力、決断する力が「意志」です。「意志」が選んだ時、思考は自然とその方向へと再編されていきます。意志が「愛を選ぶ」と決めれば、思考はその方向に動き、世界を愛の反映として知覚し、その中で行動が促されます。逆に意志が恐れに傾いていれば、思考もまた恐れの言葉や意味づけ、イメージを生み出します。思考はあらゆる恐れを生み、その恐れの思考に恐れてしまいます。どうしよう、だめかもしれない、どうにかしなければ、そんな風に恐れが恐れを読んで思考は考えたくもないことを考え続けます。でもその思考に恐れを抱いていることに気づき、その恐れを超えていきます。何で超えていくのか?それが「意志」です。私は「苦しみたくない」「幸せになりたい」「元気でいたい」「...
2025.05.21 03:33なりたいものになる「なりたいようになる」「やりたいようにやる」この言葉を勘違いしている人は多い。「自分がやりたいようにやる」時に、「こうでなくてはダメ」「こうすべき」が前提の、何かの枠に囚われた「やりたいこと」のことではない。「なりたい自分」も、「こうでなくてはダメ」「こうすべき」「人としてこうあるべき」が前提の、何かの枠に囚われた「なりたい自分」ではない。「何になってもいいのである」「何をやってもいいのである」「選択」から自由になれたとき、それが「なりたい自分」であって、「やりたいこと」なのである。どの選択も胸を張って良い。「全部ある」も同じです。「自分の好みのものや、自分が思う必要なものや、状況が全部ある」のではなく、「その時目の前にあるもの全てが最善だからこそ、青...
2025.05.06 09:42本当に大切なこと「幸せになりたい」これがみんなの共通の願いであって。でも、どうなれば幸せなのかの「条件」はみんな違って。その「条件」が自分でわかっているようでわかっていないのも確かで。物質世界にあるものや、自身の状態、状況、環境、様々な条件があっての「幸せ」は、人の数だけあるわけで。見方を変えると、幸せっていうのは、「苦痛が無い状態」ってことになるのかなって思うんです。でも、この「苦痛」にもまた「条件」があるんです。例えば、お金がない、仕事がない、病気になった、人間関係が上手くいかない…人の数だけ「苦痛の条件」が違います。つまり、求める幸せも苦痛も、個人的価値観での条件がある限り、それは「葛藤」を引き起こす要因になるんです。だから、本当に大事なのは「何があってもOK!...
2025.04.18 06:33神話と人間の心神話の奥に隠された心の地図。― イザナギ・イザナミと私たちの無意識 ―日本神話に登場する神々の物語を、「心の象徴」として読み解くと、そこには驚くほど深い人間心理の構造が浮かび上がってきます。■ イザナギ・イザナミ ― 分離と罪悪感のはじまり黄泉の国から帰ったイザナギが禊(みそぎ)を行うことで、アマテラス・ツクヨミ・スサノヲが誕生します。これは「自我が心の奥に触れ、世界を投影しはじめた瞬間」のように見えます。アマテラス:秩序や理性=自我の“光”の側面ツクヨミ:静寂や内省=潜在意識や観察者スサノヲ:感情や混沌=抑圧されたシャドウイザナギがイザナミを拒絶し、黄泉の国への道を岩で塞いだ行為は、「無意識に追いやった自分の一部」との断絶を象徴します。イザナミとは、...
2025.04.17 10:52「私」は気づきそのものである「私」が何かに気づいた。という時、それは気づいた者と、気づかれた何かという二者がある。「私」という意識が確かに気づいているのだが、この「二者」の感覚(分離)の上での「気づき」と、そうではない「気づいている意識の状態=私そのもの」という分離ではない気づきの違いをはっきりと体感することができた。「気づく」という言葉には、「私が」という感覚がおのずとついてくる。「私が気づいた」「私が考えている」「私が感じている」「私が手放した」。そんな風に「主語」が付くのがいわゆる「自我」ですね。でも、これが当たり前のように、私達には染みついている。だから、全くの無意識で分離思考を選んでいる事にも気づかない。最初は「思考に気づく」とこからもちろん始まる。そのうち思考そのもの...
2025.04.13 03:37変えなくていい世の中の流れか、スピの流れか…「変わろう」って思い過ぎているかもしれないな‥という話。そもそも「今の自分ではない別の何かになりたい」という願望が「変わりたい」という考えや行動に繋がります。ようするに、そもそもが「不足感」「欠乏感」「このままじゃダメという否定感」「恐れ」からくるものであるということです。「何者かにならなければ」と考えている間はずっと「未完成の自分」と思い込んでいるわけ。みな、生まれた時が「完成品」です。だから既に完成したものを「未完成」だと考える必要がないわけで。完成品に優劣はなくて。その完成品が並んでいる世界で、誰がそれを完成品ではないと考えているの?もう一度言います。「あなたは既に完成品です」これにピンとこないあなたは、全てが完成品...