分けるって?
現実世界の中に気づきがあるのでは?
確かにそうです。世界は心の鏡です。
でも、多くの人が勘違いしている「思考が現実化する」
これは、心が整えば「望む通りの現実が起きる」という意味ではないので…
現実が上手くいってるかどうか? は誰が決めていますか?
はい「自分」です。つまり、自分の意見として、そうであってほしい現実が「望む現実のかたち」です。
でも、こころはそれに連動しているようでしていません。
なぜなら、意識としての「私」がどう現実で表現されていくのか?は「お任せ」だからです。
思考も感情も全自動だからです。
コントロールできているようで、何もできていないから、流れに乗るだけなんです。
流れに乗れている人が、成功しているように見え、楽しんでいるように見え、幸せそうに見える、だけ。
例えば、「お金持ちになりたい」に対して。
仕事で稼ぐ
宝くじに当たる
拾う
もらう
どのパターンとしてやってくるのか?は実はわからないから。
でもある程度コントロールすることはできるかもしれませんが、基本的に、どのシーンで、自分のどんな能力が、どのように開花して、何を手にするか?
そんなのわかりません。
願望としては、理想としては、自分のイメージはあると思いますが…
それに固執する必要はありません。
そもそも、全部なるようになるなら、今頃みんな「望む現実」のはずです。
よく、「現実が上手くいってないのは、私の心が整っていないから」っていう人がいるんです。
でも、内観が進んでいるかどうかの判断は、現実の形態で判断は全くできないんです。
ただ、「どんな現実で、どのような状況、状態にあっても心が平安」→これならば、内観は進んでいると言えると思います。
上手くいっていない現実でも、苦しいとは思っていない。
思考や感情を抑圧することなく全部おもしろがれて、心が軽い。
力みが無い。軽い。余白たっぷり。
そんな感じで、反応としては地味なんです。
自分にしかわからない軽さが、自分の信頼と自信となって、どんどん内側にフォーカスができていくんです。
だから、内観と現実の形態は分ける。
別の例えを1つ言えば、
何かしてくれた人に感謝するのではなく、何もしてくれなくて自分に何も応えてくれなかった人にも、してくれた人と同じように感謝できる・・・
そんな心の状態であれば、内観と現実が切り離せています。
なぜなら、出来事や他者の行為に「差」を見ていないからです。
この人はゆるせて、この人は無理、とか。
これは良いけど、これはダメ、とか。
そんな風に差を見ていると、いつまでも「現実創造」の形にこだわってしまう。
それが良いとか悪いとかではなく…
内観に一生関心が向かない人だっています。
現実に一生懸命の人もいます。
とにかく健康に生きることに全力の人もいます。
お金を稼ぐことに必死の人もいます。
でも、どれもそれでオッケーなんです。
だって、生き方の形はなんでもいいんですから。
内観をしようが、しまいが、それもどうでもいいことなんです。
ただ、私が内観してるだけ。
好き勝手に書いているここでの発信も、「自分と向き合いたい人」に向けて書いています。
全く興味がない人には、このブログさえ現れることはないと思いますから。
読まれなくてあたりまえ、でも読んでいる人には読まれてあたりまえ。
そんなもんです。
いつどこで、どんな必要なメッセージと出会うかって、それすらわかりません。
でも、何か引っかかった時、ふと胸にしみた時、それが「縁」ですから。
ということで、
内観「心のこと」と現実は分ける!
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