自分のことを話すのは、あんまりないんですけどね。
今日は、何となくそんな気分になりました。
「あんぱん」の朝ドラのヤナセ家のリビングの小道具に「はと車」の工芸品が置かれていて、何だかじっちゃん表に現れた感があってね。
私のひいじいちゃんは、若い時から平和を願ってアケビつる細工を作り続けていた職人で…
人生の後半は「世の中を まるく 眞和禮(まわれ)と はと車」 そんなメッセージを添えて、「はと車」という民芸品を世に出していました。
善光寺の御開帳に合わせて行われた民芸品の博覧会で、今の上皇后さまの目に留まり、今の天皇陛下がお生まれになったことで上皇后さまに親子鳩を献上しています。
そのはと車で天皇陛下が遊んでいるのがテレビで放映されて、めっちゃ売れたんだとか(笑)
祖母の家にあるちょっとカッコよすぎの写真(笑)。畳二畳分くらいの大パネル(笑)
こちらは、おやこ鳩。
私は、生まれる前にひいじいちゃんは死んじゃったんで。実際に合い交えたことはなく…
でもどこか、とても親近感があって、何となく波長が合うというかね…
そばにいる感じがあるんですよね~。
「平和への願いや祈りを、体現して生きていた人」今は、そんな風にじいちゃんのことを思います。
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そしてね、全然違う話に飛ぶけども…
私カトリックの洗礼を受けていて。まぁ、0歳児だったんで、教会の神父様が「礼名」をつけてくれてるんですけど、「マリアインマクラータ」っていうんです。
小学校までは、カトリック系の学校で、家族で日曜日はミサに行って…みたいな生活してましたけど、基本にわか信者です(笑)
当時は、大阪高松カテドラル聖マリア大聖堂(カトリック玉造教会)に籍がありました。
で、そのマリアなんちゃら誰やねんって思ってずっと生きてきて、なんかマイナーでだっせーな!くらいに思ってたんですけど(笑)
(マリア・〇〇〇ってくそほどあるので、なんかよく聞くメジャーなやつ以外は、は?誰?みたいな・・・(-_-;))
で、何年か前に40過ぎて、初めてこのクリスチャンネームについてググってみたんですよ。
したらば・・・・
「インマクラータ」=汚れなき者・無原罪
「無原罪の御宿り」とは、マリア自身が生まれるときから原罪に触れず、純粋さを保った存在であるという教義に由来。
マリアは「母」「受容」「慈しみ」「仲介者」としての象徴を持ちます。その中でも「インマクラータ」は、マリアの中でも最も清らかで神に近い姿。
「愛と赦しを体現し、人を包み込む存在であること」を示す。
無原罪のマリアは、暗闇の中に差す光として信仰されてきました。
教会や修道会では「インマクラータ」を冠に持つものは、特に「新しい始まり」「神への完全な信頼」を象徴します。人は弱さや葛藤を抱えますが、その根底には「汚れなき魂」が必ずある、と思い出させる役割。
聖母マリアは「曙の星」とも呼ばれ、暗闇に差す光として人々を導く存在です。
名前は単なる個人の守護ではなく、「あなたを通して他者にも光が広がる」ことを祈りとして含んでいます。
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なんか、たいそうなことが書いてあって・・・ 昔だったら、これさっぱり理解してないわ。
なんや耳障りええこというて~って思ってたと思う。
でも、今それがやけに腑に落ちたアラフィフの私(笑)。
なぜに、この名前を神父様がつけなすったんかは、今となってはさっぱりわからないが…
(おかん、いきさつ知ってるんかな~今度きいてみよ)
名前って、ただの呼び名じゃなくて、自分を守ってくれる者、みたいなことでもなくて、きっと名前それ自体が「生きるもの」なのではと思うんです。
「私自身が生きるもの」が「マリアインマクラータという名として現れた」のであり、
それは「呼ばれる名」ではなく、「生きている名」になっていくんだと思いました。
目指そうとかじゃなくて、気づいたらそれを体現してたなって、最後はなるんちゃうかなって。
私は生きるにあたって「優しくあろう」と決めています。
「愛で生きる」と決めています。
それは表面的なことじゃなくてね。
そりゃ人間らしく文句言ったりイライラしたりも普通にありますよ。
悩んだり苦しむこともあります。パニックになって、闇落ちすることだってあります。
でも、それでもなお、優しくあろうとする方向性だけは見失わないと決めています。
結論は「愛」だからこそ、闇からも目を背けない。闇を通り抜けた先に信頼を置いています。
人を判断したり評価したり、ではなく、恐れたり、憎むものでもなく、
ただそのままにあることを無条件にゆるすことが、私の思う「優しさ」で、自分に対しても、他者に対しても、全ての人の「後ろ」にある空間を観るようにしている。
そうした私の意志は、良いか悪いかもなく、ただ「喜び」でやっているところがあるって、自覚してるんです。
そうした今、じいちゃんに思いを馳せたり、自分自身に繋がることで、方向性が「あっているよ」と返事をもらっているような気がしています。
何もたいそうなことではなく、これは「私」の中だけのこと。私の在り方と生き方の話。
繋がり合って、広がって、どこにたどり着くかはさっぱりわからない。
でもそこは、きっと、無意識が求めているところなんだと思う。
何のために生きているのか?その答えが知りたくて死ぬほど悩んだ20代、30代。
41で大病して、死に直面して、全てが変わって、そんな中で諦めきれなかった「何か」を追うことをやめなかった今、「この為に生きている」という確信がある。
それは上手く言葉で言い表せないけれど、そこだけは絶対にブレない自信がある。
それだけで、とても幸せなことだし、価値が在ることだと思ってる。
それが、この世界という舞台で、どう形作られ、展開するかは全く未知。
でも、ゴールがわかってるから、本当に全てが悦びになる時が来るのだと思う。
そのために、光であることを諦めないでいようと思う。
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