「私はこう在る」と、選び直す力、決断する力が「意志」です。
「意志」が選んだ時、思考は自然とその方向へと再編されていきます。
意志が「愛を選ぶ」と決めれば、思考はその方向に動き、世界を愛の反映として知覚し、その中で行動が促されます。
逆に意志が恐れに傾いていれば、思考もまた恐れの言葉や意味づけ、イメージを生み出します。
思考はあらゆる恐れを生み、その恐れの思考に恐れてしまいます。
どうしよう、だめかもしれない、どうにかしなければ、そんな風に恐れが恐れを読んで思考は考えたくもないことを考え続けます。
でもその思考に恐れを抱いていることに気づき、その恐れを超えていきます。
何で超えていくのか?
それが「意志」です。
私は「苦しみたくない」「幸せになりたい」「元気でいたい」「わたしでありたい」その純粋な決断です。
それが願望です。
恐れすらも超えるような、おおいなる自己の願いです。
自分の「考え」は勝手に出てきます。思考は出ては消え、出ては消え、の実体のないものです。
それが「起こるかもしれない」「起こるはずだ」と信じた瞬間、それはリアルに感じられます。そして、何かに苦しめられているような状況になってしまうのです。
その恐れを、回避したり、消し去るのではなく、それを超えていくのが「愛」です。
意志という決断の力です。
私は確かに「今恐れを抱いている」
それでもなお、私は「優しくありたい」「本当のわたしでありたい」「なりたい自分でいたい」「平安でいたい」と願うんです。
これが祈りでもあります。祈りという願いは、愛であり、それは恐れを溶かします。
恐れは「愛されていない」という心の叫び。
その叫びを、恐れを、しっかり見つめた時、愛の記憶が目覚めます。
愛されていたと思い出します。
恐れを超えていきます。
「わたしはわたしでありたい」
どんなに苦しくても、辛くても、怖くても、
それでも私は幸せでいることを選ぶ。
その純粋な意志が、思考をその方向へと勝手に動かしてくれるんです。
どのように幸せになるか、何を手にするかはわかりません。
ただ、私が平安でいられるその延長に、私の人生という形が体験されるだけ。
「恐れ」はあっていい。
でも、その恐れには従わない。
その考えには従わない。
そして、思考は私ではないのだから、純粋な意志だけを持って、愛が思い出されることを待てばいい。
恐れという闇の中を、深く深く見つめることでしか、光の存在に気づけない。
闇を通り抜けた先にある光には、闇が存在していない。そこは光のみ。
恐れを恐れないで。
その恐れこそ、幻想。
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