「なりたいようになる」
「やりたいようにやる」
この言葉を勘違いしている人は多い。
「自分がやりたいようにやる」時に、「こうでなくてはダメ」「こうすべき」が前提の、何かの枠に囚われた「やりたいこと」のことではない。
「なりたい自分」も、「こうでなくてはダメ」「こうすべき」「人としてこうあるべき」が前提の、何かの枠に囚われた「なりたい自分」ではない。
「何になってもいいのである」
「何をやってもいいのである」
「選択」から自由になれたとき、それが「なりたい自分」であって、「やりたいこと」なのである。
どの選択も胸を張って良い。
「全部ある」も同じです。
「自分の好みのものや、自分が思う必要なものや、状況が全部ある」のではなく、
「その時目の前にあるもの全てが最善だからこそ、青写真だからこそ、選択の呪縛からの自由があるからこその、「全部ある」のである。
選択の必要性が無い時に、本当に解放される。
それが目覚めて生きるというひとつの側面なのだと思う。
何者かになろうとすることは、限定すること。
何者かにならなくても、既にみんな、「わたし」なのである。
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