「私」が何かに気づいた。
という時、
それは気づいた者と、気づかれた何かという二者がある。
「私」という意識が確かに気づいているのだが、この「二者」の感覚(分離)の上での「気づき」と、そうではない「気づいている意識の状態=私そのもの」という分離ではない気づきの違いをはっきりと体感することができた。
「気づく」という言葉には、「私が」という感覚がおのずとついてくる。
「私が気づいた」「私が考えている」「私が感じている」「私が手放した」。そんな風に「主語」が付くのがいわゆる「自我」ですね。
でも、これが当たり前のように、私達には染みついている。
だから、全くの無意識で分離思考を選んでいる事にも気づかない。
最初は「思考に気づく」とこからもちろん始まる。
そのうち思考そのものと距離を置けるようになる。
頭で理解していたものが、段々と感覚として腑に落ちてくる。
思考的、現実的な気づきがあるのも、それも気づきの側面。
そして、いきなりきた。
「気づき」とは私そのもの。だったと。
それが「創造」であり「創造神」であり「私」であり「気づき」。
これが、はっきりと体感できた瞬間
「私が創り出す」「私がやる」「私がやらなければ」
そうした「我」が吹っ飛んでしまった。
「目覚めなければ」「解放されなければ」「手放さなければ」そんなものも吹っ飛んだ。
「ただ在る」という、何もない、何の意味も定義づけもされていない、ただの「私」は、創造力そのものであり、神の意志そのものであり、神の計画そのものであり、それを「愛」とも言えるわけで。
現実感や肉体感が一気に薄れた。
その気づきの私がいるからこそ、この現実世界を知覚し、体験し、知ることができている。
ただそれだけ。「私がいる」から「世界が知られている」
「夢見るものが夢である」ということになる。
「闇」なんてものは最初から無かった。
「恐れ」なんてものも無かった。
ただ「在る」というだけがあっただけ。
一瞬だけれど、そこに触れた気がする。
そしたら、エネルギーが満ちて、熱くなって、満たされて、心は静かで、「ゆりかご」の中にいるみたいだった。
この感覚をいつも大切にしていようと思う。
自分メモ用に。
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