苦しみに寄り添うというのは、同情するとは違います。
苦しみを感じていない人は、この世界には存在しません。
その苦しみに、大きいも小さいもありません。
そしてその苦しみは、「愛されたい」という叫びです。誰に、ということではなく、愛に愛されたいんです。
愛は究極の安心です。その愛はどこからかやってくるのではありません。私自身の奥にあるんです。
苦しみの中だからこそ、その苦しみを否定せず、排除しようとせず、苦しみもあって良いと全てを受け入れようと許せたとき、そこに在った愛が、苦しみを溶かしてくれます。
いつ、どうやって溶けたのかなんてわからないうちに溶けてなくなります。
その時、初めて「愛はあったんだ」って気づくんです。
でもそれは、自分の心の選択なんです。
苦しみをあって良いものとして味方にしたこと、そしてそれを溶かしてくれるであろう愛を信頼したこと。
それは「愛で生きる」と決断した自らの心の選択の意志が成せた流れです。
そして、どうにもならない苦しみが、ふと溶けた瞬間が、愛に気づいた瞬間です。
「愛されたかった」に心の底から気づきます。
その愛は、自らの選択の意志があってそれが思い出されたんです。つまり、愛は自分そのものでもあるんです。
愛は誰かのところからやってくるのではなく、自分の内側の奥底に眠っていただけ。気づいていなかっただけ。受け入れようとしていなかっただけ。
苦しさに惑わされて、苦しみを自分のやり方で回避しようとしてるから、始めからそこにある愛が出てこれなかっただけ。
ただ愛を信頼して任せていればよかっただけなのに、つい自分で何とか解決しよう、克服しようってしてしまう。
解決しようとすれば、それは「問題」となってしまいます。
自分を苦しめる「敵」になってしまいます。だから、それを攻撃したくなるんです。
苦しんでいる人に寄り添うのは、自分もその人と同じところにいるからです。
苦しみのない人はいません。全ての人の苦しみは、同じ苦しみです。だから人の苦しみに、愛への絶対の信頼と共に、寄り添う。
心で寄り添う。
私が愛に生きると選択し続けるそのエネルギーと相手のエネルギーがひとつになって、両者の苦しみが溶けていく。
そんな体験を多くするようになりました。
誰かを救うとかじゃなくて、私も全ての人に救われています。
「私はあなたと同じところにいる」「私はあなたと同じ苦しみの中にいる」
だけど、大丈夫。始めから愛に守られているから。大丈夫は決まっているから。
ゴールは安心だって決まっているから。
だから「安心して一緒に恐れていよう」って、そんな風に人と寄り添うようになりました。
私が完璧な安心の中にいられているかは関係ありません。
私だって不完全です。苦しみの中にいるんです。
それでもなお、「愛で生きる」という意志だけはぶらしません。
これが、人間の中にある最大の決断の力、意志なのだと思います。
どんなに苦しくても、「愛に生きる」と決めたんですから。もうゴールは決まっています。
意志したものは、もう叶っているんです。
だから、後はそのプロセスを静かに体験していくだけ。
苦しくてもいいんだって本当に思えた時、それは「苦しみではなかった」ということも同時に起きるんです。
何度も何度もそれを繰り返していくうちに、「愛」と「私」がどんどん近づいていきます。
そのうちピタッと一体化するんでしょう(笑)
「私は愛です」
これが私の意志です。
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