この世界を観察し続けると、あることに気づく。
他者を、「自分の奴隷として扱っている」のである。
他者に機嫌を取ってもらおうとしていないだろうか。
他者が自分の言う通りに動いてくれて、結果を残してくれたら、嬉しくないだろうか?
他者の幸せを、こちらが敷いたレール上でそうなってくれることを願ってないだろうか?
そして、他者が幸せであることで、自分も幸せだと感じていないだろうか?
この人がいてくれるから・・・
私は安心だし、幸せ。
そんな風に、他者(特に家族、親しい人、友人など)に依存した幸せに、私もなかなか気づけなかった。
誰かに幸せにしてもらうことは、悪いことじゃない。その他者も、「投影」という高次の自己の視点に立てば「私そのもの」だからだ。
この人がいてくれるから…
「この人」がもし、自分の目の前からいなくなっても、
今まで通りに振る舞ってくれなくても、
あなたはその人の幸せを願えるだろうか。
この人がいなくなって、寂しい、悲しい、苦しい…
なんで私はこんな苦しみを味わっているの?
なんで私ばっかりこんな目に?
私はこんなにがんばっているのに。
もしそんな気持ちが出てきたら、それは他者を奴隷のように扱っていたということではないだろうか。
自分にとって都合の良い他者を作り上げていたのではないだろうか?
無条件の愛なら、他者がどんな人でも愛せばいい。
誰も自分に何もしてくれなくても愛せばいい。
人に感謝されなくても、喜ばれなくても、嫌われても、その人を愛せばいい。
心の底から、人を受け容れた時、自分のことのようやく無条件に愛せるようになる。
目の前の他者は、私の自己意識そのものだから。
愛していたようで、「愛せていない」という事実。
条件付きで愛していた事実。
それが見えた時、本当に目の前の人が愛おしくなった。
私にとっての都合の良い人にならなくていい。
あなたはあなたを生きればいい。
だから、私も、私を生きる。
きっとそれで上手くいく。
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