キリストの十字架刑。
罪のないキリストが処刑される場面。
それを見る人々は罪悪感を感じたであろう。
キリストを貶めた者、キリストは無罪だとわかっていて何も言い出せなかった者、何も関係がない者も見ていて心苦しくなるであろう。処罰する側も心が痛んだであろう。
そう、あの場面は完全に「罪」というものが象徴されている。
罪、罪悪感、処罰への恐れ。
宗教的な解釈はどうか知らないけれど、
私はこう解釈します。
キリストは、何もしていない。
私達を悲しませようとも、苦しめようとも、傷つけようともしていない。
見ている姿は痛々しいかもしれないが、キリスト自身は「何も思っていない」ということに気づけということだったのではないか?
私達は思考で世界を作ります。
肉体や、物や、自然や、ありとあらゆるこの世界を形成するものは全部思考。
見えるものに囚われなければ、心で生きることができる。
心は死ぬことがなくて、いつもここにある。
だから十字架刑のあと現に復活したわけで。
肉体を超えていたわけで。
復活したキリストは処刑される前の姿ではなかったわけで。
弟子たちは、見た目が違うキリストを最初はキリストだと気づかなかったけど、話すうちにこの人がキリストだと気づくわけ。肉体ではなく、心がそこに残っていたので、キリストを感じたってことです。キリストは誰の心の中にもあるんですね。
宗教的には、私達が罪悪感を感じ続ける為の解釈になっているけど、
キリストは、そんなもん最初から無いということをみんなに気づいてほしかったのではないかと。
罪という概念は、明らかに私達自身が作り上げたもので、それに怯え、囚われ、
手放したいのに、それがないと困るからとしがみつく。
そんな矛盾と滑稽さに気づきなさいとキリストはメッセージをおくっていたのではないか。
だけど人間は、区別や比較、攻撃、によって自分の身を守れると信じてしまった。
自分ではない誰かに罪を見ることで、自分には罪がないから安全だと言えると信じてしまった。
自分に罪が無いと思っていても、正しいと思っていても、この世界に罪の概念自体がある限り、罪悪感は避けられない。
他者に罪を見ないなら、自分にも罪がない。
他者に罪を見るから、いつか自分も罪を追い処罰されると恐れることになる。
どの状況においても、他者においても、自分においても、そこに罪を見ないことが、葛藤からの解放なのではと思っている。
だから、何もしていない。
外の世界では何も起こっていない。
見えてはいるけれど、見えているものに何かが起こっていると解釈をつけなければ、それはただの映像で。
それはそうなることが決まっていただけで。
あるがままであるということであって。
それらは始まりと終わりが同時にある場所になる。
この世界に意味を見出すことは、罪の概念の中に閉じ込めることを意味する。
意味をつけているのは自分。都合よく考えているのは自分。事実とは異なる別の答えを作り出したのは自分。
それに気づいた時、ほんの少し真理に近づくのではないだろうか
こちらの記事も参考に。
https://funky-funky.amebaownd.com/posts/53682412
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