「幸せになりたい」
これがみんなの共通の願いであって。
でも、どうなれば幸せなのかの「条件」はみんな違って。
その「条件」が自分でわかっているようでわかっていないのも確かで。
物質世界にあるものや、自身の状態、状況、環境、様々な条件があっての「幸せ」は、人の数だけあるわけで。
見方を変えると、幸せっていうのは、「苦痛が無い状態」ってことになるのかなって思うんです。でも、この「苦痛」にもまた「条件」があるんです。
例えば、お金がない、仕事がない、病気になった、人間関係が上手くいかない…
人の数だけ「苦痛の条件」が違います。
つまり、求める幸せも苦痛も、個人的価値観での条件がある限り、それは「葛藤」を引き起こす要因になるんです。
だから、本当に大事なのは「何があってもOK!」になることなのではと思うわけ。
幸せで楽しいなら、まあストレスはありませんからね。快楽、報酬系の悦びや幸せでも、それはそれでOK。
そして、逆に、お金がない自分、仕事がない自分、病気の自分、上手くいかない自分、であっても、それもOKなんです。
要するに、どんな自分も「愛されていいもの」であると受け止めること。
自分自身を条件で判別しないことです。
「理想ではない自分」は愛されないものではありません。
どんな汚い自分、ひどい自分、最悪な自分、何もできない自分だとしても…それでいいんです。
無条件の愛は、全てをまるっとOKを出すんです。
この無条件の愛が「あなた」そのものです。愛は、意識の「私」であって、精神の「私」であって、その私は根っこは「1つ」しかありません。
誰かが愛を判別するのでありません。
愛そのものに気づいている意識が「本当のあなた」という存在そのもの。
だから、
お金がある状態になることが良いのではなくて、
仕事が上手くいってる状態が良いのではなくて、
病気にならない体を持つ自分が良いのではなくて、
いつも楽しく、感謝できる自分が良いのではなくて、
全てをありのままに、自分にも他者にも「そこにいていいよ」「それでいいよ」と優しいまなざしでいられることが、究極に「幸せ」なのではないかと思います。
形に囚われない、心の平穏に意識が向く時代になってきました。
それは決して、現実逃避ではありません。
ありのままが受け入れられた時、心が自由になった時、本当の意味で地上に根を張ることができるのだと思います。
何かに縛られて、葛藤していた不自由な自分でいた時より、心が自由になると、現実に対しても積極的に関係を持っていくようにもなります。
それは、全体性の視野の中で、今自分に必要なことにフォーカスできるようになるから。
ありのままの自分でいる時の生き方、在り方の選択は無数にあります。
現実で起きることって何でもいいんです。
どんなキャラクターで生きてもいいんです。
そこにはこだわりや執着もありません。
何にでも変化すればいいし、同じままでもいい。
でもその背景には、ずっと普遍で変わることのない絶対的な「愛」があって、それはいつも自然で、調和が取れて、整合性が取れている「創造エネルギー」そのものがある。
「私は私のままでいいんだ」って思える時、それは「他者は他者のままでいいし、世界も世界のままでいいんだ」っていう、「力み」のない意識。
そういられる時、目の前に出てくる現象(現実)に対する解釈、知覚も変わっていくはず。
あなたの想い、心の状態が映し出す投影の世界は、力みも争いもない優しい世界になるんじゃないかな。そしてそこには、純粋な「幸せを願う意志」があるだけ。
って、思います。
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