罪悪感しか湧かない日常の構造

遊びたいーーと泣きじゃくる子 VS 母。

イオンに遊びに行ったて、椅子でくつろいでいる時、ある親子のやり取りが目の前で繰り広げられてました(笑)。

かなりね、長いことねばってました。小さい子がいるうちはアルアルですね。

それを見ながら心の中で実況中継。

でね、おチビちゃんはテコでも動かない(笑)

激しい泣きの一手をひたすらやってます。「いきたい」「やりたい」の連呼。

お母さんもねばります。今日はやめとこうね・・・とかなんとか。力づくでという感じではなく子供と我慢比べでお母さんもねばります。

そして、10分以上してふら〜っと旦那さんが登場。

数分話してた後で、旦那さんが子供の手を引いて、そのお目当ての場所へ。

形としては子供の勝利(笑)。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ここからは、私の妄想。

でね、子供はすぐ泣き止んだけど、当の本人もなんかちょっとパッとしない顔。

お母さんは、思い通りにならなくて子供に腹立ってるとか、旦那にいいとこ持っていかれてちょっと腹立つとか、結局行くならあんなに泣かせずに要望聞いてあげたら良かったかもっていう後悔とか、あの子にとってこれでよかったのかとか、そういうの考えてるかもね。

旦那さんの方も、自分の行動が正しかったかもわからんし、でも子供が喜ぶなら…とかも思うし、さっさとしてあげればいいからと奥さんを責めるかもしれない。

そんなふうに、

旦那さんの気持ち

子供の気持ち

お母さんの気持ち

は実際在るかもだけど、実はこれは「わたし」という一つの心の中で起きているので、全部自分です。

なので、「自分」を分離させた誰かの気持ちに「私」が立ってしまうと、どっちが正しいか?の視点になってしまうし、自分を責めることになりますので。

誰になるわけでもなく、第三者的に眺めてみるんです。


これ、それまでの行動の内容としては誰も悪くない。言動や振る舞いは関係がない。

ここで共通している点として、全員がこの状況に「罪悪感」や「憎しみ」を感じる可能性があるということ。

よかれと思う結果に導いたとしても、本当に丸く収まったわけではなく。

誰がどうなっても、罪悪感や怒りを抱く構造。

つまり、「わたし」の心にある【罪悪感】の投影。をこの家族に見せられている(笑)


さて、この家族が出演するストーリーに話は戻して。

子供は、わがまま言っちゃったなって思うかもしれない。(実際浮かねー顔してんだ(笑))

この一件が家に帰ってからも自分のせいで尾を引くと子供も本能的にわかるかもしれない。ぷりぷりしたお母さんのご機嫌を取ろうとするかもしれない。

旦那さんもこれで良かったかわからない。子供が喜べばいいじゃないかと奥さんの気持ちまで考えられないかもしれない。

お母さんは思い通りにならないイライラを別の案件で晴らそうとするかもしれない。ずっと家に帰ってもモヤモヤするだろう…


これって日常的にめちゃめちゃあるんだ。形、シチュエーションは違えど。

その中で誰が正しいとかの判断は、罪のなすりつけ合いということになる。

誰かや何かに苛ついたら、そこには憎しみがある。

大切な家族だからこそ、誰かの為にしたい、手伝いたい、助けたい、幸せも願う。

でもそれぞれが思うようになることなんてないから葛藤する。

大切な関係だからこそ執着する。

まだ他人のほうが関心が薄いから楽。切ればいい話やからね。

でも家族や大切な人ならそれが簡単じゃーない。言いたいことが言えなくなるのも身近な人ほど。

この家族の当事者に自分がなった時、一歩引いた視点でないと、感情が乱れまくる(笑)


冷静に何が起こっているのか、状況ではなく心の動きの全体が眺められたら一瞬で全部を許すことができる。

抑圧した許しではなく、あーこんなことに意味はないなーって思えたら許せる。

抑圧が度を過ぎると、全く気付かなくなって強制終了がやってきます(笑)


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Funky's Ownd

心を楽に、ありのままでシンプルに生きる。本当の安心感を手に入れるために、メタ認知を通して自己理解していきます。メタ認知関連の書籍出版、占いの個人鑑定、講座など。

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