「感謝」がいいとか悪いとかではなく。
感謝すること、に関しては当たり前。それは前置きしておきます。
私達は、何かの出来事、人、物、動物、環境、状況、自然災害や、何かしら脅威、様々なことに対して「怖い」という反応を起こします。
自分自身に対して(自分の考えや感情)も「怖い」と反応します。
それは、自分が攻撃されるのではないか、苦しめられるのではないか、自分にとって良くないことが起きるのではないか、襲われて死ぬのではないか、
あらゆる想定の中で「怖い」と感じるんです。
そもそも恐怖を感じているのは、その相手(状況)が自分にとって、何か良くないことをもたらす可能性があるもの、として心の奥で信じているから。そうした可能性を秘めた「悪」のように考えています。
だから、まだ何も起きていないのに「怖い」と感じる。(何か起きたと思ったら、それも当然怖いけど、起きる前からそれに対して恐れを抱いている)
ハッキリ言いますが、この世界で私達が見ている全ては、自分の「敵」「攻撃対象」になりうるものだと無意識は判断してます。
怖いという感情は、その対象となるものを受け容れてはいません。
拒絶、拒否しているからこそ「恐怖」が出る。
ここで人間は、その恐怖を回避しようとします。
恐れを回避しようとすると「怒り」「憎しみ」「攻撃心」が生じます。
怒りがあからさまに対象に向かい、攻撃に向かう。攻撃というか「対抗する」という感じでしょうか。自分に危害を加えそうなものとは戦おうとします。
自分に恐れという感情を抱かせているであろう、外側にいるその人、物、動物、環境、状況、霊、エネルギー、あらゆるものに対抗しようとします。
(これは自分自身(思考)に対抗しているのと同じですよ)
そしてその「恐れ」をどこかに追いやるために、自分は強くあろうとし、行動します。
つまりは、恐れの回避のために対象に攻撃をする。しかも常に先制攻撃。
そして、戦いに勝てば(問題が解決されたら)恐れはなくなったと勘違いします。
でもそんな戦いに疲れると、今度は自分以外に、自分以上に苦しんで欲しいと「復讐」といういう名の攻撃を仕掛ける。
また、もう一つパターンとしては、自分に危害が加えられないように、(恐れを見ないようにしようと)自分を強く見せ、全てを受け容れるふりをし、憎しみの対象に無理やり感謝したりする。何とか楽しさや、心地よさ、自分は守られていると思い込もうとする。
こうして恐れを「きれいな形」で解消しようとする。
でもこれは怒りや憎しみを見過ごして抑圧することになってしまう。
だから、いずれまた何か違う形でそれが噴出する。結局何かへの攻撃に向かってしまう。
私達は、というか、この世界全体が「恐れ」をベースに回っています。
恐れは、何か自分が処罰される(自分に悪い事が起きるに違いない)という「罪悪感」から生じるものです。
これは、完全な無意識で、漠然とした「恐れ」としか私達は感じません。
その漠然とした恐れは、より一層恐怖心をあおるので、何か「具体的な原因」をこの世界の中に見つけたくなります。
そして、自分が思う原因を(問題を)解決することで恐れの回避に成功したとおもってしまう。
これがこの世界の苦しみのループ構造。自分で自分に仕組んでいる罠。
「恐れ」には怒りや憎しみが絡み、それらを同時に全てを維持し続けることによって、自分以外の何かを攻撃し続けることが可能になる。
恐れの発生源は自身の無意識にあるのに、それを外に責任転嫁して、自分以外への攻撃を正当化する。
その外に向けた攻撃は全て自分への攻撃であることに気づきません。
外側を奴隷にし、自分自身をも奴隷にする。そして「苦しみの世界」を維持します。
この世界の全部が苦しみ。全部が闇。
それが見えた時、わずかに「光」があることに気づきます。
この世界で何をやっても恐れに向かい、全てが苦しみだという認知が起きるなら、その時初めてそうではない別の何か=愛という認知が可能になるのではと思います。
私は、自分自身が不快さを感じている時、不安や恐れを感じている時、それはそうした「苦痛」が可能だと無意識で信じてしまっていると思ってます。
確かにそれが可能だと、苦しむことが可能だと、苦しむことは当然なのだと、そう信じてしまっている。自覚はないけど、それを信じているということはそれを望んでしまっている。
つまりは「苦しみは楽しみでもある」
これが、苦しみを手放せない要因だと。
こうした心理的な理論をふまえて、私が日頃内観で気をつけていることを言語化してみようと思います。
私が不快さを自分自身に感じた時、何に恐れているかとか、何が問題であるとか、それを解決、回避しようと外の具体的な何かに意識を向けないことに注意を払います。
他者や、状況、環境についてや、思考、感情、過去についても振り返りません。
これがどう解決されるかの期待もしません。
自分の思考(自分で結論付けるような考え)を全部止めます。
そして、ただ恐れを拒否します。同時に感じる怒りや、憎悪も見落とさず、それも拒否します。自分の心を捉えて、それが確かにあると認めて、そしてそれがいらないと意図する。
無意識で、苦しむことが可能だと、苦しみが楽しみだと、そう信じてしまっている私の心が、どう解けるかはわかりません。
でも、「苦しみが一切ない世界線」を信じる。そこにだけ期待をかける。
僅かな苦しみ、苦しみという何か一部を取っておこうとせず、自分で解決を試みるのをやめて、対抗するのをやめて、全く苦しみのない穏やかで静かな「私」をひたすら望む。
それが与えられることが決まっているはずだから。与えられないという事はないはずだから。
その平安はどこからやってくるのか、どのように、どのタイミングで来るか、そんなのも正直わかりません。
でも、いつ来るかわからない、いずれ来るだろうという未来への期待が叶うまでの恐れも捨てて、ただやってくることを信じるだけ。
これからやってくると私が考えているものは、もうすでに私の所にあるもので、それは私でもあり、自分が考えているような時間はかからないということも信じつつ。
本当の安らぎが与えられるのを、私が何もしないで待つ。
そうすると、いつの間にか不快さが消えています。
いつどうなくなったかわからなく消えてます。
そんな実践をしてるうちに、あらゆるものに対して「怖い」と感じることが段々となくなっていくんです。外のあらゆるものを攻撃対象として見なくなる。恐れが薄くなると同時に怒りも薄くなる。
全ては同質、同じ、平安を望む者で溢れているように感じる。
誰もお互い攻撃しない。誰も悪くない。誰も何もしていない。
何もしていないから、何も起きてはいない。
ただ全てがあるがまま、余計な解釈がなければ、ただそこにそれがあるように見えているだけで、自分が思うような深い意味も何もない。
そんな風に感じる瞬間が増えていきます。
こうやって自分を観察して、理解を深めていくだけ。
恐れ、怒り、憎しみ、攻撃のない世界線を思い出していくだけ。
でもそれは、自分がそれを望むかどうかにもかかっている。
内観は、ただ気づくだけ。
全ての人が平安であること。それは願いとか、そういうんじゃなくて、
単にそれが生きている目的なんだと思う。
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