今日は、かなり真面目に、シビアな話。
他者は、何のためにいる?
それは、私を喜ばせるためにいる。
そして、私を苦しめるためにいる。
私の機嫌を左右する行為者としての他者。
私が自分で自分にはやらないことを、私にしてくれる他者。
私が、それはしちゃだめ、と思っていることをしてくれる他者。
私はそんなことしない、ということをやってくれる他者。
具体的に言うと、
「自分のことをおおっぴらに自慢なんかしちゃだめ」ってあなたが思っていたら、「私のことを自慢してくれる他者、私を褒めてくれる他者、私を応援してくれる他者」が欲しくなる。
そういう他者と関わりたくなる。
私の欲求を満たしてくれる他者は、迎え入れる。
私が何か「こうすべき」という定義を持っていたら、それに反する他者が現れる。
私が、「こうなってはいけない」と思っていることを、表現する他者が現れる。
そういう、自分の機嫌を逆なでするような他者は、縁を切りたくなる。そこまでいかずとも、拒否して物理的に離れたくなる。批判したくなる。
他者は、私を喜ばせてくれる、と同時に、私を苦しめる存在でもある。
いい意味でも悪い意味でも、「自分が自分にできないことをやってくれるのが他者である」
そしていつも私を怒らせるのが他者である。
自分にとって都合よくなっている時だけ感謝するのではなく、
自分の思い通りになっていない時に感謝できるかどうか。
自分はだめだ、とできない自分にOKを出せていない自分に、OKを出せているかどうか。
他者は、私の鏡、というか私そのものである。
他者だけではない。自分自身、他者、見える世界全部が自己の投影である。
個人の他者は、私の中にある表現の可能性を様々に見せてくれる。
他者も、それを判断する自分自身も、私が私の解釈で作り上げている投影なだけ。
そういう意味では、あなたが思うような他者は実在していない。
でも、その実在感ある投影が、私に何を伝えようとしているのか?「他者」から何に気づくべきなのか。
「他者」はあなたの奴隷ではない。
あなたの機嫌を取ってくれる奴隷ではない。
他者は気づかせてくれるが、他者が私に教えてくれるのではない。
私も他者に何も教えられない。
ただ、それらすべてが、あるべくしてそこに在るだけ。
「自分」というものはいない。「他者」というものもいない。
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