「ワクワクすることをやる」のに理由は必要ありません。
ワクワクして、やらずにいられないことだから「ワクワク」なわけで。
湧いてきたワクワクに答えてあげること(ただやること)が「ワクワクすることをやる」という事です。
「ワクワクしたことをしてるんです」「心地よいことを選んでやってます」というそこのあなた!
それをやることで起こりうる未来を予想したりしていませんか?
「このために、それをやっているのだ」という理由が出てきませんか?
それを仕事につなげようとか、それで人の役に立とうとか、それでお金を稼ごうとか、思っていませんか?
はい、これに心辺りがあるなら、それはもう「ワクワク」からズレてしまっているかも。
「ワクワクしたことをやりましょう」って言われるのは、それが何のためかとか、それをやればどうなるかとか、それによって自分は変われるとか、そうした「憶測」「期待」を持ち込まないためです。
自分らしくあるためには、憶測や期待を捨てる必要があるからこそ「ワクワク」にフォーカスしてねっていうことなんです。
自らの内から湧いてくるワクワクに答えて「ただそれをやる」だけ。
実は、「ワクワクした事の中で、本来の自己を妨げるものがよく見える」って知ってますか?
わくわくしてやっているその時ほど、自分が隠している本音がよく見えます。
それは本音というか、あなたの思考の習慣(クセ)が見えるってことです。
楽しいはずなのに、わくわくすることをやっているのに、何かモヤモヤする… なんてことありませんか?不満や愚痴がでてきませんか?
そんな時、それが何のためとか、誰かのためとか、将来のためとか、考えていませんか?
これをやれば、自分らしくなるとか、変われるとか、本音で生きられるとか、幸せになるとか、考えてませんか?
「ワクワクすること」をやっている時に、不快にはなりません。
もやもやとかしません。後悔とか、心配とか、不安とか、ありません。
「ワクワク」は「目的」です。そのワクワクに答える為の肉体は、ひとつの手段です。
もし、好きな事、心地よい事、ワクワクした事をやっているにもかかわらず不快が出てくるなら、悩みが出てくるなら、それはたぶん、本来目的であるはずの「わくわくすることをやる」ということが「手段」となってしまっていて、それをやることによって何かが得られるという別の「目的」が新たに加わってしまっているのだと思います。
↑ 「目的」が「手段」になってしまう。これがあなたの思考の習慣になってしまっているんです。
例えば「旅行に行く」ことがあなたのワクワクとしましょう。
ワクワクする所に旅行します。ただそれだけです。目的はこれです。
そこに、この旅は、人生を変えるかもしれないとか、新しい出会いがあるかもとか、いい経験になるかもとか、成長するかもとか、きっといい思い出になるはずだとか、そうした思惑は何もありません。
↑ これが目的になってしまうと、何が起きるでしょうか?
目的通りにならないことに苛立ちます、落ち込みます。
ワクワクなはずの「旅行」そのものが苦痛にもなりえます。
「旅行は本当は好きじゃなかったかも」とか「これは自分には合わなかった」とか、そういう理由をくっつけて、「ワクワク」を見失ってしまう。
でも、今さら、行かなきゃよかったとか思いたくないから、「やっぱり行ってよかった」と言える理由を懸命に探します。
これ、無意識にやっちゃうんです。
何事もポジティブに捉えるってよく言うけど、これは、感情の抑圧です。
「ワクワクすることをやる」
普通に、シンプルに、そうしてみて。
「何のために」って考えない。期待や憶測は捨てる。
やらずにいられないんだから、やればいいだけ。
これが、ワクワク。
そのワクワクは、拡大する。
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