私は、イライラしている、と気づけるのは、「私=怒りではないから」
私は、痛みがある、と気づけるのは、「私=痛みではないから」
私は、人間である、気づけるのは「私=人間ではないから」
は??って感じですよね?
だって人間じゃん!人間だもの‥‥
なのに「人間じゃないの???」
論理的に考えてみよう。
〇〇であると、気づくことができるのは、〇〇自体ではない、「何か」がいるんです。
だって、〇〇だと言うことができるためには、まず比較対象がいるんです。
〇〇と、〇〇ではないもの、の両者を比べて見ている第三の視点があるということです。
「私」が「〇〇そのもの」であれば、私は〇〇だ、なんて言う必要がないんです。
私を証明しなくても、私だから。
つまり、「私」を説明なんてできない。私は何者かなんて言葉で解明もできない。
説明がないものが「私」。私の本体である気づきの意識そのものです。
気づきの意識そのもの、としての内観の理論はこちらに書きました↓
意識そのものの私には、「肉体」はありません。
肉体が「ある」と思い込んでいる意識があるだけ。
論理を突き詰めると、なんだかおかしい、矛盾していることを、疑わずに生きていることが見えてきます。
内観の面白さはそういう所にあると思って、毎日そのことばっかり考えてにやけています(笑)
そんな私が開講している講座やセッションに興味のある方はこちら↓
https://ameblo.jp/yumerika2018/entry-12930614236.html
https://ameblo.jp/yumerika2018/entry-12929403189.html
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